大仏開眼への道7~レイバンの記憶
一年前はスキンヘッドだったのに、いつの間にやら私の頭は天然くるくるバーマが生い茂っています。抗がん剤治療を受ける前の髪質はバリカタ直毛でしたが爆発的な生命力で再生しています。
看護師さんは私のボンバーヘアを見て
「すごい元気になったわね」と笑います。
「抗がん剤で脱毛した後の新芽はみんなクルクルしやすいのよ、でもそこまですごい人は珍しいわ」
くるくるの原因は?と尋ねると
「毛穴の形状かも知れない。丸い毛穴が一回塞がって、そこをこじ開けながら生えるから、いびつな毛穴を通過する時にこうやってねじれるのかな」
二人で手のひらをくねくねしながら笑いました。推測とはいえ説得力があります。
目の治療も順調です。網膜のレーザー治療もほぼ終えたので、そろそろメガネを作り直そう。ライダー復活の日も近づいています。
バイクは小さなkawasaki 250TR 、サングラスはレイバンのティアドロップで父の愛用品です。
「ねえお父さん、レイバンのサングラスを私に頂戴」と言うと、ちょっと惜しそうな顔はしていたけれどバイク用に欲しいのだとねだると渋々ゆずってくれました。
去年がんの手術を受けたこと、今年は白内障や網膜手術を受けたことも父には内緒です。
治ってしまえばそんなこと年老いた父に知らせる必要もない。
幼い頃のレイバンの記憶。
新宿西口思い出横丁のサングラス屋
タバコの吸い殻 ベットショップ
傷痍軍人とハモニカ
映画三本立て
70年安保 浅間山荘事件 日活撮影所。
私が育った調布市は日活関係者が多く、親が照明やカメラ、美術、殺陣師という同級生が結構いました。
多摩川の河川敷ではよく映画やドラマの撮影をしていて、 あの石原プロも近所でした。
夜に偽パトカーがぞろりと並ぶ時があって、それはカースタントの人が翌朝早い撮影に備えて乗って帰っていたのだと思います。
さて、話を私の父に戻しますと、終戦直後に鹿児島から上京してきたそうです。
父に戦争中のことを聞くと。
「日本は戦争に負けたんだよ。戦争末期なんてアメリカの戦闘機がきたってこっちは一機も飛び立ちやしない」
負けると思っていたの?
「そりゃ日本は負けるって。もう飛行機ないんだもん。早く戦争が終わってくれと。
桜島の噴煙を眺めながら、ただ腹一杯に白い米が食いたいと思った」
何度聞いても白い米が食いたかった話の繰り返し。理由はわからないけれど、父の戦争の記憶は固く封印されていて、忘れようとする強い力が働いているのかもしれません。
そして父の話はいきなり終戦後に飛びます。「進駐軍キャンプでボーイのバイトをしてお金を稼いでいたんだよ。
ヤンキーに ワラッ!ワラッ!って言われても何のことだかさっばりわからなくて、もう怒られたね」
ワラッと聞こえたのはWater 水のこと。
「そうやってヤンキー英語を覚えて。
レイバンとジャズは戦勝国あめりかーの象徴でね、憧れだったな」
父のちょっと遅れてやってきた青春。
「ジャズやろうぜって友達と盛り上がってたけど結局口だけだったなバンドの話は」
カビ臭いレコードとレイバンのサングラスは忘れ去られていた遠い日の憧れ。
今どき、レイバンのティアドロップってさぁ…と冷やかす人もいますが、私は結構気に入っています。
あの70年代に覗き見ていた大人の世界にようやく仲間入りしたような、大人アイテムを手に入れた気分。
時代遅れのくるくるパーマとサングラス。
一周回れば新しい。
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