XR、ほんのちょっと未来の話

2020年、世界は一変した。それ以前、顔に装着するものはたかだかメガネぐらいだったが世界中でマスクが必須になってしまったのだ。

人類はしばらくその元凶である新型コロナウィルスと戦い続けたが、最終的には共存の道を選ばざるを得なかった。その後、マスクは高性能化したVRゴーグルがメガネの機能を取り込んで融合し、かつて溶接工などと陰口を叩かれた大きなスクリーンの付いたサンバイザーのような物に取って代わられた。

この日本発祥のバイザーのことを能面にならって「オモテ」と呼び、バイザーをかぶることを「オモテをかける」と呼ぶのが通例になった。英語圏でも “Omote” と呼ぶ。”emoji” もそうだが、顔と日本語の組み合わせには長い歴史がある。そしてオモテの顔面側のことは当然ウラ “Ura” と呼ぶ。

人によってはアダプターを頭蓋骨に埋設し、顔面に装着するものを何でもかんでも引き受けていた耳への負担を解消した。オモテは顔面の3Dスキャンと3Dプリンタによって造形され、多少の空間を残して顔面に密着する。それを仕立てるオモテ屋さんがメガネ屋さんに取って代わった。上部と下部の両側には超小型画像センサーが内蔵され、両サイドには吸気口とフィルターが装着されている。フィルターは定期的に交換することでオモテ内の衛生を保つ。これによって顔面のパーツつまり眼球と鼻と口はすべて外部のウイルスや菌を含む空気から守られる。また同時に呼気に含まれる湿気は特殊フィルターで素早く吸収されウラが曇ることを防いでいる。

ウラ上部にはスキャナが装備され、眼球やまぶたの運動、眉や表情筋の動きや色の変化や脈拍、口の動きをスキャンする。声や呼吸の強度と速度も当然モニターされる。また、網膜投影ディスプレイによって映像は網膜に直接結像されるため、もはや近視や老眼、乱視に悩まされることもない。そしてオモテ本体は透過型ディスプレイになっており、無段階に透過度を変化させることができるため必要に応じて外光を遮断することや、表面へ映像を表示することもできる。透過率を調整して顔面にメイクやエフェクトをかけることも可能だ。音はウラに左右1対セットされた新世代骨伝導スピーカーによって立体音響が再生される。

かつてはメガネとマスクなどという不便で不合理なものの組み合わせが幅を効かせていたが、現在はほとんどオモテに置き換わってしまった。だが当然オモテを拒否する人々も一定数いて、そういう人々は古式ゆかしいメガネとマスクの組み合わせで生きているが、2020年ごろにスマートフォンを持っていなかった人々のようにガラパゴス扱いされ、社会サービスからは切り捨てられそうになっている。

VR空間内の存在はアバター、実空間内の実在はホンニン "hon-nin"と呼ばれ区別されている。英語圏では「ホニーン」と発音されるので分かりづらい。「あ、あの黄色のカエルみたいなアバターのホンニンは私です」のように使う。「あっちのバース2830の緑色の巨人のホンニンもやってます」など。

透過率を変化させることで、VR/AR/MR を連続的に行き来することが可能なのでもはやXRという言葉は廃れてしまった。ただしメタバース化された無数にある空間の中でも、ホンニンの肉体が存在する特異空間である現実空間だけはバースゼロと呼ばれ特別扱いされる。

VRモードでもホンニン周辺の現実空間を認識して、VR空間もそれに応じて変形し、ガーディアンは動的に設定される。VR空間内の移動手段は複数用意され、実空間に制約がある場合も不自由なく移動することが可能だ。やろうと思えばかなり広い範囲でVR空間を現実空間とリンクすることができる。また当然、現実空間とのリンクを遮断することで完全に自由なVR空間を作ることも可能だが、現実空間との干渉が十分回避できる場合のみ利用することが推奨される。日本の狭い部屋の中で広いVR空間を楽しもうとして怪我をする者が続出したためだ。

現実空間の屋外を自動車で移動する際は、オモテは自動運転車とリンクされ、見たければクルマに装備されたセンサーからの情報をすべて見ることができ、必要なら自分で運転することもできるが、そんな奇特なことをするのは今や一部の変わり者だけで、車内でもリビングにいるのと同じように皆くつろいでドライブを楽しんでいる。しかし実際には人間は運転していないのでドライブという言葉はドリブンに置き換わりつつある。窓や屋根を開けて外気を浴びたい者はオモテを外すこともあるが、よっぽどのことがない限りそんな危険なことをする者はいない。

あるバースでは生殖の概念が拡張され、任意の複数のアバター個体間で子アバターを作ることが可能だ。各アバターの活動は表情や発言、動きなどが詳細に記録分析され、それらの特徴からそのアバター固有の遺伝子が生成される。複数の個体が生殖行為を営むとランダムな確率でそれらの遺伝子がランダムに結合し新たな子アバターが誕生する。そしてその個体は本体となるホンニンが存在しない純粋アタバーと呼ばれる。今後社会的倫理的にどうなるかが注意深く見守られている。

実空間側からホンニンへの割り込みが発生すると、バイザーはARモードになり、実空間との混合映像が網膜に投影されインタラクションが可能となる。その瞬間にアバターはスリープ状態に移行する。現実空間での活動はVR空間内のそれとは厳格に区別され、実空間内でのプライバシーは守られる。しかしホンニンはその記憶を保持し続けるためスリープ状態の時に現実空間で経験した事象はVR空間内では「ユメ」"yume" として語られることがある。

だがホンニンが望む場合は、現実空間でアバターとホンニンを連携させることができ、ARモードの時にオモテのディスプレイにアバターを表示することが可能だ。だが多くの者はそんなハイリスクなオプションを選択しない。また、現実空間でホンニン確認が必要な場合のみ、この時代でもオモテを外して実顔を見せなければならない。

現時点でのオモテの唯一の問題が飲食である。下部を開閉式にすることで飲食を容易にする仕組みもあるものの、それは同時に呼吸器系を外気に晒すことになるため、リスクが伴う。そのためオモテには流動食をストローで流し込むオプションも設定されてはいるが、グルメが多い日本ではあまり人気がなく、安全な空間でオモテを外して自由に飲食することが好まれる。

そのような自由な飲食が可能な完全にクリーンな空間を提供することこそが今の時代での最高の接遇とされており、それは日本の有名な言葉にあやかって「オモテ・ナシ」と呼ばれている。

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