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フジロックに行ってきてしまった

「行ってきてしまった」という書き方をしてしまうのは、そこに罪悪感があるからだ。

この記事では、常識や正しさや建設的な話ではなく、パーソナルな想いを書こうと思う。

僕は高校生の時に初めて行ったフジロックに魅了され、以降ほぼ毎年、トータルで15回ほど、前夜祭から4泊5日でフジロックに行っている。仕事は会社員でなくフリーランスなのだが、その理由もフジロックに行きたいからだ。プロダクションからマネージメント所属の打診をいただいたこともあるが、自分のスケジュールをコントロールしたいという理由でお断りした。キャリアのステップアップに繋がるチャンスより、フジロックを優先したのだ。

チケットの購入をしたのは、2020年の1月。まだ出演アーティストの発表もされていない段階。この時点でチケットを買う人たちは、もはやライブなんてほとんどどうでもいいのである。あの空間にいられることが何よりの喜びであり、ライブはオマケみたいなものだ。

2020年のフジロックの開催中止(2021年に延期)が発表された時は本当に悲しかったが、まあしょうがないと納得できた。今年は我慢して、来年は2年分楽しもうと思い、2021年も有効となるチケットを払い戻さなかった。YouTubeでの過去のライブの配信を家で観て、サンボマスターの無観客ライブを泣きながら観た。「来年こそは」と強く思った。

だけど、2021年の出演アーティストが発表されるニュースを見るたびに、「本当にやるのか?」と思っていた。様々な野外フェスが中止を発表する中、「本当にフジロック行っていいの?」と感じていた。

僕は東京都に住んでいる。目下緊急事態宣言が発令中だ。不要不急の外出、県を跨ぐ移動は控えてくださいと御達しが出ている。開催前の1週間は開催地である新潟県の新規感染者数と常ににらめっこしていた。いっそ中止にしてくれたら良いのにと思っていた。

家を出発する前日の夜、重い気持ちで荷造りをしていた。

きっと今、地方に行く仕事が入ったら、多分自分は行くだろう。仕事だから。背に腹は変えられん。だけどフジロックは仕事じゃない。趣味やエンタメの部類だ。今年フジロックに行かなかったとしても、僕は死なない。自分の欲の為に、誰かの命を危険にさらす可能性のあることをしてしまっていいのか。もっと言えば、僕は今年のオリンピックの開催に反対だった。完全なダブルスタンダードだ。自分の気持ちを肯定するすべが無い。

一緒に行く妻に「本当に行っていいのかな」と漏らすと、今更何言ってんだと一喝された。こんな前日になるまで、「行かない」と決断しなかったのはなぜだ?「なんで今年フジロックに行きたいのか」をちゃんと考えなかったのか?と言われた。

その通りだと思った。僕は「なぜフジロックに行きたいのか」を考えることなく、「行ってもいいのか」「そもそも開催していいのか」と、他者に判断を丸投げしていたのだ。僕が向き合わなければならなかったのは「なぜ倫理に反してまで行きたいのか」という自分の気持ちだった。

事前にオフィシャルでアナウンスされていた情報から、今年のフジロックは僕が好きだったフジロックとは別のものになるだろうなと予測はしていた。例年と同じようには楽しめないだろう。それでも行く価値はあるのだろうか。

こんな例えは少し大げさだし不謹慎かもしれないが、自分の大切な家族が行方不明になってしまったとして、警察や消防が必死の捜索をしてくれているとする。捜索を始めてもう2週間。生きて見つかると信じたいが、心のどこかでは「もうダメかもしれない」と感じている。すると警察からご家族のご遺体が見つかりましたと連絡を受ける。歯の治療跡やDNAで遺体はご家族本人なのだが、見るも無残な状態なので、無理に確認しなくても良いですと警察に言われる。

そう言われた時に自分はどうするだろうか。恐らく、遺体がどんな状況だったとしても、僕は「確認したい」と伝えると思う。自分の目で、ちゃんと受け止めたいと思うだろう。

今年のフジロックがどんなものになっていたとしても、それがフジロックであるということに違いはない。僕は見たいのだ。大好きなフジロックが、この状況下においてどういうものになったのか。YouTubeでのライブ配信や、他の来場者がSNSで伝えてくれるものではなく、自分自身がそこに行って体感したい。一次情報として、コロナ禍のフジロックを受け止めたかったのである。

だとしてもフジロックに行くことを正当化はできない。けれど少なくとも決心はついた。翌日、抗原検査の陰性を妻とともに確認し、苗場へ向かった。

新幹線で越後湯沢の駅に着くと、もう例年とは違うものであると確認できた。とにかく人がいない。いつもならお土産売り場、食事処は人に溢れ、会場へのシャトルバスを待つ長蛇の列があるはずだった。現地の方々もここが稼ぎ時だと活気に溢れていたのに、閉まっている店もあった。歓迎されていないし、そもそも本当に人がいない。こんな時期なのだからこうあるべきだと思う反面、少しショックを受けた。

会場に着いてもその気持ちは好転することなく、むしろ加速するばかりだった。運営側はかなり対策をしていると感じた。(こちらに書かれているのとほぼ同じ肌感https://anond.hatelabo.jp/20210824003850

こういう対策でいいの?と思う部分も正直あった。でも精一杯は尽くしていたと思う。それはすなわち、いつものフジロックと全然違ったということを意味している。やっぱりか。これはもうフェスティバルじゃない。ステージや会場は同じ大きさ広さなのに、明らかに少ないガラガラの観客。歓声があがることもない。酒に酔った陽気な人たちもいない。こんなのまるでお通夜じゃないか。

分かっていたことだし、これがコロナ禍での正しい姿だというのも理解している。苗場に来られた喜びは確かにあったし、アーティストの演奏自体は素晴らしかった。でも僕の好きなフジロックがこんな姿になってしまって、やっぱり辛かったし寂しかった。

アーティストもライブ中のMCでみんな迷いを口にした。でも彼らがライブをすることは正しいと思う。彼らはそれが仕事だからだ。運営のSMASHも各技術スタッフもみんな自分たちの仕事をしにここに来ている。じゃあ、僕はどうなのか。僕は客だ。客とアーティスト、そしてイベンターも、ある種の共同体ではあると思う。客がいなければライブは成立しない。でも、客と彼らはやはり立場が違う。僕は彼らを肯定することはできても、自分を肯定することはやっぱりできなかった。

サンボマスターがステージで「全員優勝!」と叫んでいた。彼らは不安な僕らに向けて愛のある言葉を投げかけてくれた。クソなやつなんて誰一人いないと言ってくれた。こんな気持ちだったから涙が流れた。救われた気持ちになった。でも、本当にそれでいいのか?スタッフが再三マスクは鼻まで覆ってくださいと言っているのに鼻丸出しの客を何人も見た。マスクを外して大声で話している人もいた。そういう人を見かけるたびにストレスを感じた。無条件に注がれる愛は、本当に正しいのだろうかと思ってしまった。それは思考停止に繋がってはいないか?

そもそも、鼻をマスクで覆わない客も、こんな状況でフジロックに行った僕も、大きく見たら同じ穴のムジナだ。他人に配慮がない身勝手な人間だ。僕の行動も新潟県の方々から見たらストレスを与えてしまっているだろう。

こんなにマイナスなことを書き連ねて、それでもなお、僕は現時点ではフジロックに行って良かったと思っている。こんなに涙を流したフジロックは久しぶりだった。お通夜みたいなフジロックだったとしても、僕はフジロックが好きなんだと改めて気づかされた。それだけじゃない。「僕はどういうものを好きだと思う人間なのか」ということまで知れたと思っている。これはただ好きなものを享受しているだけではたどり着けない。好きなものの嫌な部分まで目の当たりにして、考えて考えて、その先にわかるものだと思う。

SMASH側だってこんな不本意な形で開催するなんて嫌だったろうと思う。無観客有料配信という方法だって当然考えていたと思う。開催すれば、叩かれて分断を生み、世間の嫌われ者になる覚悟もあったと思う。SMASHやアーティスト、関わる全てのスタッフに感謝している。


最後に、

医療が逼迫する中、自分のエゴのために誰かを危険にさらしてしまうかもしれない選択をしたことは本当に申し訳なく思っています。今日もコロナで亡くなった方がいて、この先も亡くなる方が出てくると思います。その一端を担ってしまった罪は消えません。謝るなら最初からするなと言いますが、謝ってでも、誤っていたとしても、自分が大事だと思うものを知りたかったんです。無責任でダブスタで身勝手な行動だと思います。本当にすみませんでした。

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