10月③スポットライト 世紀のスクープ

私たちは信じている。
教師を。警察を。医者を。隣人を。
自分に対して悪いコトをするわけがない、と。

信じているから、安心して暮らせるのだ。何かあれば、その人たちを頼ればいいと思っている。しかし何故だろう、無条件に彼らを信じられるというのは。もしかしたら、自分を騙したり傷つけたりするかもしれない、のに。そんな可能性を露ほども思わずに、信じている。

それは、特に強く信仰する宗教を持たない私が本当のところを理解するのは難しいかもしれないが、キリスト教徒が教会や聖職者に対して持つ信用・信頼と似ているのではないか。

無条件に、自分に悪いコトをするわけがない、と信じる気持ち。

それが裏切られた時の失望は、無宗教でも想像できる。現に、日本社会では、警察の不祥事や教師の犯罪を厳しく断罪する。信じていたからこそ、許せない。

多くのカトリック教会の神父が、信者の子供を性的に虐待していた。教会の上層部はそれを知った上で、事件を隠蔽し、犯罪者を匿ってきた。教会と対立しても、真実を明らかにしようとするボストンの新聞社の闘いを描いた今作。実話に基づく。

記者たちは、成長した被害者たちに話を聞き、到底癒えるのことのない傷を抱えていることを知る。神様を信じるのと同様に信じて、敬っていた神父に蹂躙されるという、残酷さ。さらに彼らは、自分が悪い子だからそんな目にあうんだ、と思ってしまう。羞恥心や罪悪感が強いため、事件を表沙汰にすることを望まなかった。

加害者の神父たちは、そこまで全て見抜いて、ターゲットを決めていたのだ。

本当に胸くそが悪い。

そして、被害者の親からの訴えなどにより事件が発覚したとしても、教会上層部が神父を別の教会に移すことで、示談にしていたのだ。当然、加害者は新しい教会で新しいターゲットを探す。加害者が何のお咎めもなく教会を転々としていくため、被害者は増え続ける。

新聞社は、神父個人の犯罪だけでなく、組織ぐるみの関与を告発した。案の定、全米に衝撃を与え、他の地でも同様の犯罪が明らかにされていった。しかし、ボストンの教会トップである枢機卿はローマの教会に転属になっただけだという。結局組織としては、誰も責任を取らなかった、ということなんだろう。

信じることは悪いことじゃない。それは、生きていく上で、必要なこともある。宗教だけでなく、冒頭でも言ったように、私たちは権威とか隣人とかを信じていることで、安心して暮らしている。

ただ、それを裏切られた時、「悪いことは悪い」と言わなきゃいけない。なかったことにしよう、と目をつぶった時点で、悪さに加担したことになる。

これは、カトリック教会だけの事件、つまり「対岸の火事」なんかじゃ、絶対ない。

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