出生無条件賛美への違和感の正体。【善悪を超えた場所】

『自殺島』という作品を初めて読んだ時に、感じた違和感。
『自殺島』という漫画は簡単に言うと、自殺未遂者たちが無人島に放流されて、彼らはこの新たな場所(島)で生きていくことを決意して、共同生活をしていく。
その中で自殺未遂者同士、争いや事件というのが多々発生して、それでも強く生きる、そもそも生きるとは何なのか。みたいな。そんな感じのストーリー。 

16巻で出産をするシーンがあって、そこで私は出産、命を繋ぐということの偉大さに感動を覚えるとともに、どこかモヤモヤする気持ちがあった。
それはなかなか言語化が難しかったけど、今になって思う。

確かに美しいけど、僕らがこうして産まれるということは物凄いことなんだけど、それは出産を肯定する理由にはならなくないか? と。

人によっては、あのシーン見ても尚その感想なのかと、思う人もいるだろう。
でも私と同じような、思考や理屈を優先するタイプの人は多少なりとも同じようなことを思ったんじゃないかな、と勝手に考えたりするんだけど。
これで生の肯定になるか? って。

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何が言いたいかと言えば、出産という生命の神秘を感じる現象に対して、人々は大きく心を揺さぶられる。
その結果、なんだかそれ(出産)を素晴らしい善なるものだと無条件に思わなきゃいけないみたいな、そういう雰囲気に包まれる気がする。
それがすごく怖い。

※私は反出生主義者ですが、ここで出産を悪だと断罪するつもりはないですし、出産の自由というのは基本的には誰もが持っていると思っています。それを侵すことは誰にもできません。
私のこの文章の主眼はそこではないことは知ってほしいです。


その事象について、正しいか間違っているかという議論は、あらゆる場合でなされるべきだと私は思うんだけど、それ自体がタブー視される傾向を出産という行為は持っている。

だからモヤモヤしたんだ。出産の美しさや尊さは描かれてたけど、出産が善であるか悪であるかというような思想的テーゼの不在。

テーゼ(命題)は、ここでは、ある問題についての主義主張のこととする。

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私はこの世界を自然と、理性を持った人間という二つに分けて考えている。
それぞれに正しさがあって、人間は自然的でもあり理性的でもある中間者だから、非常に難しい選択を迫られてしまう。

つまり、子供を産むことは自然的な観点で見れば正しいが、理性的な観点で見れば正しくない。

前章で述べたように、万物万象はすべて「気」であるが、その中でも人間は特に「気」の良質の部分でできている。その人間が人間であって他のあらゆるものとは異なるゆえん、すなわち人間の価値・意味、あるいは人間である以上かならず果たさなければならない役割が人間の「理」なのであるが、朱喜はそれを「性」と呼ぶ。「性」とは、人間の生まれつきの本性であると同時に、人間の「理」なのであり、
〈中略〉
同様に、「理」は本来善悪といった価値判断とは無縁のものであるのだが、人間の「理」を「性」と呼ぶことによって、「理」も善なるものと想定しなければならなくなる。つまり、この世界のあらゆるものやことは、本来のあるがままの姿において善なるものであり、それら多様な有り様は美しく調和しているということである。
この美しい世界の調和の中で、ひとり人間だけがときにその調和をかき乱す。かき乱しておいて、改めて本来の美しい調和の世界への復帰を願うのが、人間なのであった。

『朱子学入門』垣内景子 p44


※朱子学は理を窮めることを教えているが、反出生思想とは全く関係がない。
単に私がこの世界を朱子学的に理解しているというだけである。


結局この長々しい引用で何を伝えたいのかというと、人間以外の動物は出産という行為に対して疑問を持たないし、だからこそ自然的な美がある。

人間は出産に疑問を持つ、すなわち他の動物とは違う何かがある。すなわちそれは理である。

私たち(一部の人間)は出産という動物として当たり前の行為を否定する。
本来この世界に善悪なんてないのに、苦しみ=悪とすることで自然的な営みを忌避しているんだ。

私たちは苦しみ=悪としながらも、どこかでそんなものを超えた何処かへ行きたいと思ってしまう。
仏教の禅宗では無分別智とかいうやつ。

でも人間以外はみんなずっとその状態だよ。
全て、自然はあるがままで、ただ命を繋ぐために、生命としての意志によって生きている。

そんな美しい調和の取れた世界で、戦争は悲惨だとか、優秀な遺伝子がどうだとか、苦しい世界で生きたくないとか、そんなことを人間だけが言う。
熊を殺すのは可哀想だとか、熊からしたら笑止千万では?

戦争は悲惨、というのは実に人間的・理性的な価値観だ。
動物は自分が生きるために他の生き物を殺す(食べる)ことに罪悪感を覚えるか。覚えないだろう。

(人間は生きるために必要なものが食物だけではない関係で複雑だが、本質的には動物と同じ。「動物の争いは生きるため、食べるための行為だから。」とか言われそうだから念の為。どちらも純粋なるもの。)

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戦争は人間として自然な行為であり、別に善でも悪でもない筈のものだ。
しかし私は、それでも戦争はであるべきだと思う。
例え戦争やさまざまな争いが、自然的・宇宙的観点では善や悪もないものだとしても、人々は戦争を嫌うだろう。
それは多くの苦しみ、悲しみが生まれるから。
それが人間としての自然ではないか、人間としての正しさではないか。

理(理性)を働かせて生きよう。
人はあるがまま、剥き出しのものに魅せられる。すなわちそれ自然。
出産に立ち会った時、人は無条件に理性を脱ぎ捨てる。そして無条件にその行為を善悪を超えたところで評価している。

しかし私はそれだけでは不十分だと言いたい。(それは人間の半分だよ。)
しっかりと、出産し子供を産むということについて考え、自ら納得のいく答えを出して、その時に人は本当の意味で出産に立ち会うのだと私は思う。

その結果、出産は善である、というテーゼを立てたのなら私はそれを尊重する。
自分とは異なった考えの人も認めていかないといけないから。それが相互理解だから。

その上でより良いものを選択していけるように、あくまでお互いを尊重した上で議論する。それは早急になされる必要はない。少しずつ、ね。
その結果のアウフへーべン(止揚)によって、人類は今よりも更により善く生きていくことができる未来を目指して、希望を持ち歩んでいくことができるんだ。

今の段階だと正直、認めるとか以前の問題である。
何のテーゼもないから。
どうして私が出生主義者に対して強烈な違和感を抱くのかやっと言語化できた。
同時に、これ理解し合えるのか? と不安に思う。

私がここまで書いてきたことに、どうもしっくり来ないという人はいるだろう。感情優位型の人は特に。
でも私はこれを伝えていきたい。そういう思いがあるから、相互理解を進めていくための具体的な方法も考えていく必要があるだろう。

また、純粋な反出生主義者の方は、もしかするとお前反出生主義者じゃなくないか、と思ったかもしれない。
私はまごうことなき反出生主義者であるが、そこについて触れると主題とズレるので、私の反出生主義についての細々とした姿勢は、他の記事で書いてるので、もし良ければ読んでくださると幸いです。では。

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