いつもの道

かれこれ5年前ほどから私は車の運転を控えていた。

運転するとすれば、殆ど、子供の大会でハイウェイの長距離運転のみ。

めまいが始まったころは本当にひどく、運転できる状態ではなかったし、一度怖い思いをしてから、やめてしまったのだ。緊急以外は。

この初夏、友達のお母さんの病気で、緊急に呼び出された、私は、選択の余地がないまま車に乗り込み、子供と向かった彼女の家。

いわゆる「火事場のバカ力」とはこのことだなあと、改めて思う。

自分がどうやってたどり着いたのか、もう覚えていない。ただただ、必死に車を走らせていたし、ただただ自分に「めまい、くるな」を言い聞かせ。苦手な車線変更、一番嫌いな交差点を通過すること、全てクリアしていた。

2か月弱通った30分ほどの道。今では、少し運転するようになり、運転範囲も少しずつではあるけれど、広がった。

けれど、心臓の疾患が見つかってから振り出しに戻りつつも、ごくごく近所の運転は続けた。

今日は友達のお母さんの月命日だ。もう4か月もたつ。

月命日には、私はどんなことがあっても花を持っていく。今日も、心臓のエコーのアポイントメントの後、花を買い、彼女の家に向かった。

この夏通い続けた「いつもの道」

熱い日差しで私の左腕は真っ黒だった。トラックドライバーのように。長い湖の横の道をひたすら運転していく道すがら、ラジオからよく聞こえてきたのはハリー・スタイルの「Watermelon sugar high」だ。毎日のように、それも2,3回聞くことも当たり前。子供に「こんなあほらしい歌信じられない」とつぶやいていた自分。でも、ある日、精神的にきつく、テンションを上げるために、大声で歌って湖沿いの道を走った日もあった。

意外に助けられらのだ。あのかったるい、歌い方でも。私もスイカの甘さでハイになりたいものだ、とつぶやきながら。


あれから4か月。ラジオから聞こえてくるクリスマスソング。ボリュームの音量を「大」にして振り出した雪を見る。

去年の12月、自分がこうして30分の距離を当たり前のように、運転していることがあっただろうか。

去年の12月、自分の心臓があまりよくない状態だと思うことがあっただろうか。

去年の12月、元気一杯だった友達のお母さんがなくなってしまうなんて思っただろうか。

人生は本当にわからない、と改めて思った。


私はクリスマスの飾りを町中でみつつ、住宅街に入ると、各家庭の飾りつけに癒されつつ、彼女の家にたどり着いた。

急いで戻らないといけない私。クリスマスのオーダーで忙しい友達。

花束を渡して、お互いクリスマス後だね、のんびりと会えるの。と言い合い、のんびりというより、来週の病院の結果で私の状況もわかるから。といい。

「メリークリスマス」

とお互い言い合い。私は彼女の家を後にした。

いろんなことがあった2020年。

わかったことは、いや改めて感じたことは、目の前で起きていることを理解し、受け止めること。逆らわず、流れにのること。

友達のお母さんの死も自分の心臓のことも、納得はいかないし、「どうして!?」と疑問符が沢山ある。

でも、全てにおいて、始まりがあり、終わりがある。原因があり、結果がある。

だからこそ、当たり前の日々をこなすことがとても大事だと思った。

でも、当たり前の日でも、いつもの道でも、季節によって本当に景色が違う。

前にも言ったかもしれない、「四季」というのは日本にしかないものだ。と誰が言ったのだろう、と。まあ、わびさびの観点からはそうとは思うけれど、私は殆どの国にも存在していると思うし、私は今冬の季節を降雪とともに感じている。

そう、熱い日差しの中、Watermelon sugar highを歌った夏を感じていた時と同じように。

同じ道でも違う景色。そして違う自分。

2020年ももう少し。クリスマスまであと8日。

時が過ぎるのは本当に早いものだ。

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