「冷笑系」という、言葉の毒

ここ数年、(自称)リベラル・人権派界隈から「冷笑系」と言う言葉を使うのを見かける。
例えば使い方としてはこんな感じ。

ネトウヨの毒舌な叔父さんbot 冷笑系

https://twitter.com/NTUY_uncle_bot/status/1271057253781532672

何を言ってるかわかりますか? わからない? そうですか。実は私もわかりません。
この「冷笑系」なる言葉、使い方を観察すると統計や測定値などの科学的な根拠を元に、あるいは論理的な反論・指摘を受けた時に使われていることがほとんどであるように思う。
さらに言えば、この言葉を使った後、根拠や論理をもって反論を行っているところを見たことがない。
もし見たことがあるという方がいたらお教えいただきたい。

この後私が見てきた「冷笑系」使用の考察を書き連ねたいと思うのだが、だらだら書かれた駄文を追うのが面倒くさいという方のために、最初に結論を書いておく。

「冷笑系」という言葉は、感情論のみを根拠にしている者が、根拠を以て問題点を指摘され、まっとうに反論できない際に吐き出す捨て台詞(悔し紛れ)である。

この言葉については、もうこれで結論でいいと思います。
いろいろ長々と説明したり怒りだしても「図星憑かれて逆ギレしてら、m9(^Д^)プギャー」でいいです。

もうこれ書いたらモチベーションほとんど果たしたんであとはまあいいってな気になりますね。書きますけど。

以後、だらだらと続くのでお暇な方だけ寄ってらしてください。

私が最初に「冷笑系」という言葉を見たのは、東日本大震災から数年経った頃。
当時、福島原発事故の放射性物質の拡散を恐れ、政府が指定する区域外(場合によっては福島県外の関東圏)からの、いわゆる「自主避難者」がまだ多数いた(今もいることはいるようだが)。(自称)人権派が彼・彼女らの行動について、「感情的な理解」にとどまらず、「行動の正当性」を主張していた。
それに対して事故直後の、状況が時々刻々と変化し、情報も錯綜していた状況から、安定的な観測数値が出されていた時期であり、それを用いて自主避難の判断が誤りであることを指摘がされていた。
(それでも不適切な方法による自主測定値などを持ち出して実際よりかなり過剰に放射性物質の危険を言い立てる者は多数いた)
その指摘に対する再反論でである。私が最初に「冷笑系」という言葉を見たのは。
「自主避難擁護論者」は、彼彼女らがいかに被害者か、自民党政権の原発政策がいかに間違いかを(議論の焦点ではないのに)延々と述べた後、相手を「冷笑系」と言ってあざ笑ったのである。
「冷笑系」?
当然それを見て意味が頭の中に「?」がいくつも浮かんだ。私の知る「冷笑」とは、使い方がかなり違う。

新明解国語辞典第5版によると
  ―する さげすんで笑うこと。
  
広辞苑第4版によると
  あざわらうこと。さげすみわらうこと。「他人の―を買う」

調べるとおおよそ私の理解と同じことが記載されている。
とりあえずその後の議論も追ってみたが、何か論理的な反論が追加されたかというと、それがされていないのである。まったく。これっぽっちも。どうやら「自主避難擁護論者」は、自身の感情的正当性をぶちまけ、相手を「冷笑系」と呼ぶことですでに反論を行ったつもりのようだった。
彼はなぜ「冷笑」という言葉を使ったのだろうか? 少なくとも彼の目には「冷笑」してるように映ったのだろう。

ウォーズマン 笑い 口


こんな感じ?
だが、上記の説明のように、私が理解する限りでは適切な数値を示し、格別の懸念の必要がないということを説明しているだけで、あざ笑っている要素はまったくない。それどころか最初に「避難者の気持ちは察するが」と断っていた。
それらの言葉が目に入らなかったのだろうか?
あるいは擁護者側は感情的になり読み飛ばしたのかもしれない。しかしその後も何度も同じような状況に遭遇するのである。

ポルナレフ 何を言ってるかわからねーと思うが 催眠とか


パターンとしては同じである。
①ある事象(大抵はある行為Aに対する擁護)に対し、根拠を伴って論理的に反論される→②反論を受けた擁護者は行為Aの主体が如何に不当な仕打ちを受けているか、その境遇に置いた者がいかに責任があるかを述べる→③擁護者は反論を行った者を「冷笑系」と断定する。
以上である。行為Aには「自主避難」や「破壊行為の伴うデモ」などが入る。
一連のやりとりは③で終わりとなる。①と②が繰り返し行われる場合もあるが、最終的に③が行われて終わりになる。

ポルナレフ 答え③


何度も何度も反論者が行為者への同情を示してるのに、それを見落とすということがあるだろうか? いや、ない。(反語)
ではなぜ彼らは反論者の行動を「冷笑(あざ笑い)」と判断したのだろうか?
反論者の同情の意は、擁護者にはどう映ってるのだろう? 少なくとも「好意的ではない」と判断はしているのだろう。ではなぜそう判断するのか。推測ではあるが、時として繰り返し行われる②の行動がその原因ではないだろうか。
自身は行為者のことがこれだけわかっていて「理屈(論理的妥当性)」を拒否し、「共感(感情的同調共感)」のみを求めてる、としか私には判断できない。(別の可能性があればご教示お願いします)
ではなぜそのような事を求めているか、ということの理由は、9年前にジャーナリストの佐々木俊尚氏が指摘していた、これに尽きるだろう。

佐々木俊尚 弱者憑依

https://twitter.com/sasakitoshinao/status/1272181113042071553

佐々木氏の指摘のように、まさしく「弱者憑依」により得られる無敵感を否定されたことによる逆上。その反応が「冷笑系」呼ばわりと私は判断している。
無敵感を肯定するために、その感情に反するものは否定されなければならない。当然相手が自主避難者等に同情はしているという事実も否定されるべきものとなる。彼らは疑問を持たず、論理建てて説明する批判者を悪魔化することで自らを否定する要素を排除し、弱者の味方、正義の代弁者というセルフイメージの強化の道を最短コースで突き進む。

しかし当たり前のことだが、理屈抜きの共感を望む当事者(弱者と呼ぶのはいかなる意味でも憚られるが)もいれば、それを望まない当事者もいる。

数年前のことだがゲームが白人優位で男性優位だという批難に対して、女性や少数民族のゲーマーらから#NotYourShield(あなたの盾じゃない)というハッシュタグでの反対運動が行われた。(ゲームから”美少女”が消える日 ~GamerGate参加者が語る欧米社会の今~ Part-4 GG後半戦-FemFreqとNotYourShield

そもそも無条件で弱者に寄り添うという行為は、必ずしも弱者が望むものとは限らない。では、どうすべきか、どうやって判断するのかと言えば、論理立てた思考と議論によってしかそれはなし得ないだろう。

感情の発散が問題の解決になるという理屈はないし、まさしく今現在、アメリカの事例でそれが問題の解決になっていないという局面に我々は対している。

よりよい選択は自由な議論の中で見出されるものというのは、現代の自由民主主義国家にとって大前提の基本である。
しかし、それを拒否し自己の無敵感のために共感のみを求めて突き進むとどうなるのか。
結論は、「共感を望まない当事者をも批難の対象として断罪していく」ことになる。

2020年  デモ隊 黒人警官 中指


https://twitter.com/SaltyCracker9/status/1268233420401868801
(この写真は確認できる限りでは2020/6/4のこのツイートが一番古く、大元の出典や実際はどのような状況であるかは不明であることは明記しておく)

こうなってはもはや彼らの主張する正義はどこにあるのかわからない。
また、現在アメリカで起こっている一部が暴徒化しての暴動の犠牲者は仕方ない犠牲者なのか? いや、仕方なくない。(二度目の反語表現)
理性を否定し「造反有理」「革命無罪」では文化大革命やアレクサンドリア図書館焼き討ちの再現にしかならない。

理性を遠ざけるために「冷笑系」という言葉を使うことはやめない限りは、この言葉を使う者は秩序と文化の破壊者としかならないだろう。

それは当事者の意思や客観的状況を無視して、自らの怒りを肯定するためだけの言葉なのだ。正義のためではなく、自分勝手な怒りで他者を燃やすためだけの言葉。その言葉を使う者自身がその炎から無事であるという根拠があるだろうか?

それは使う者を蝕む毒なのだ。

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