「ブラック・パンサー」は本当にポリコレ?

ブラックパンサー

 米国ではジョージ・フロイド氏の死を契機としたBLM運動が(全部がではないが)先鋭化し、一部では暴動や占拠といった問題に発展し、米国での論調もアフリカ系に対する権力勾配前提の権力再分配的論調や、人種や差別がまるで関係ない"Black", "Slave"の含まれる専門用語・技術用語まで狩られるという様相を呈してきている。
 が、今回そのことが主題ではない。昨今の風潮で大前提として語られる「ポリティカル・コレクトネス(Political Correctness:政治的正しさ)」の話である。
 自分がこの言葉を初めて知ったのはそれこそ「政治的配慮」により当たり障りのない表現をすることをそう呼んでいたし、「政治的に正しいおとぎ話」という、むしろ「政治的な正しさ」を揶揄した本なども出ていたので、その時期から考えると隔世の感はある。(悪い意味で)
 しかし今回はポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)自体の是非も主題ではない。映画におけるポリコレでよくとりざたされる作品「ブラック・パンサー」についてである。
 「ポリコレなんて押し付けられたら作品がつまらなくなる!」「いや、ポリコレでも面白い作品はある!(むしろポリコレで多くの人に受け入れられる)」と言った論争がネット(の一部)でよく繰り広げられるが、その際ポリコレで大ヒットの例としてポリコレ勢のよく上げるのが「マッドマックス 怒りのデスロード」と、今回取り上げる「ブラック・パンサー」である。(マッドマックスについても思うところはあるが、それは機会があれば、いずれ)


 「ブラック・パンサー」はマーベル・コミックのコミック作品原作のヒーローもので、2018年製作の映画である。
 物語の筋はストレートなヒーローものだが、最大の特徴は「主人公がアフリカ系」ということであろう。主人公のティチャラは東アフリカにあるとされるワカンダ王国という架空の国の王子だが、このワカンダ王国というのが、太古に地球に隕石として落ちてきた超金属「ヴィブラニウム」の恩恵を受け、独自に超絶的な科学力を発展させるのだが、ヴィブラニウムを巡っての紛争を恐れ、その存在を秘匿し、偽装工作により表向きは農業などにより生計を建てるアフリカの一国家としている。
 ティチャラが受け継ぐ「ブラック・パンサー」も、その超科学力のスーツを駆使して戦うヒーローだが、とりあえず細かいことは(アメコミ勢のツッコミが恐ろしいので)触れないとして、これら、映画からわかる設定を見た感想を言おう。

「ん? ポリコレ???」

 まず、当然の話だがヴィブラニウムという鉱物は現実には存在しない。これも当然だがそれにより超絶技術を持つワカンダ王国なる国も存在しない。当たり前すぎる話だが、これらは全部架空の設定なのだ。
 そのことはいい。そんなことは突っ込むようなことではない。
 特に、アフリカ系のヒーローでメジャーなものが少なく、ごっこ遊びでも同じ人種のヒーローがいなかったアフリカ系の子どもたちに大人気だったという話を聞くと微笑ましくなる。
 白人の子供がブラック・パンサーのマスクを付けたところ「白人が黒人のヒーローを奪うな!」と言われる問題は起きたが、(それ自体はよくない過剰な反応と思うが)その他の反応は概ねは微笑ましい話である。

 が、これが「ポリコレ」と呼ばれるとなると、「ちょっと待てよ?」となってしまう。

 繰り返しになるが、ブラック・パンサーはもちろん、ヴィブラニウムもワカンダ王国も架空のものである。架空のものであるということ自体は何も問題がない。しかしそれを「政治的に正しいもの」としてしまうというのはどういうことか。
「NARUTOの火影や鬼滅の鬼滅隊は実にポリティカル・コレクトネスです!」
 こう言われたらどうか。作品を気に入って褒めてくれるのは(自らに関係ないことなのに愛国的という非難はあろうが)うれしいし、いいことだと思う。でもそれがポリコレ的って???
 これが「ブラック・パンサーはポリコレだ」と言われることへの違和感である。
 これまでアフリカ系のヒーローに飢えてた子どもたちに待望のヒーローが出てきたのはいいことだ。それを人種関係なく気に入って喜ぶのもいいことだ。だがそれってポリコレ的なの?
 ブラック・パンサーの設定を言ってしまえば、これ、思いっきり「歴史修正主義」である。
 架空の歴史がいけないなんてことは、もちろんない。それはあくまで作品を楽しくするために作られた設定であり、誤謬の歴史を広めようという意図は毛頭ないからだ。だから「ブラック・パンサー」のワカンダ王国も何も問題はない。
 問題はこれを「ポリコレ」と称してしまう連中である。作品をそう称することで、人を楽しませるための「偽の歴史」ではなく「政治的に正しい」偽の歴史だと言ってしまってることになってしまう。アフリカ系奴隷の描写がある作品でさえ注釈が必要だと言い白人と仲良くしていた作品を禁じる連中が、「こちらは間違った偽の歴史」「あちらは正しい偽の歴史」という分別を行っていることになる。創作の是非を政治性を帯びた判断基準でしているのだ。
 私は物語の重要な効用の一つは「慰め」であると考えている。現実では正義は必ずは勝たない。心正しいものが報われるとは限らない。救われず幼くして命を落とす子供もいる。現実の苦さを受け入れてなお、人間はなお心の慰めを必要とすることがある。その救いの権利は人種性別年齢を問われるべきではないと考える。
 私の結論は次の2点に尽きる。

 1.「ブラック・パンサー」は(たとえある種の人にはとてつもなく陳腐なヒーロー物に見えたとしても、ワカンダの設定が現実のアフリカ情勢をないがしろにしたものに見えたとしても)ある者にとってはまごうことなく「慰め」と「救い」の意味を持つ物語である。

 2.それを政治的なものだから許す、許されないというのは物語を享受することの特権化である。

 「慰め」というのは政治的に許される、許されないというものであってはならないと私は考える。もしそうしてしまえば、政治的だからいいとされた物語はある者にとっての特権の象徴にしかならない。
 それゆえに「ブラック・パンサーはポリコレである」という言説は、作品に対する冒涜ですらある。
 私はそう思う。


 ちなみに、同じく「黒豹」の名を冠した映画で、マリオ・ヴァン・ピープルズ監督・主演の西部劇「黒豹のバラード」がある。映画自体は監督のオレサマ感がややあるが、その中で主人公たちが途中で寄った娼館の女将が言った言葉が大変感銘を受けたので、紹介しておく。

「ここでは肌の白いも黒いも関係ないのさ。ここで大事な色はお札の緑だけさ(笑)」

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