「主体性」ってどこからくるのだろう
仕事柄、「主体性」という言葉を使うことが多い。
「主体性を引き出すにはどうしたらいいのか」という文脈で使っている感じ。
でも、引き出すものなのか…引き出させるものなのか…
先日参加したこじんまりした勉強会。企画の評価は人数ではないけど、結構仕事柄参加人数は気にしがちになってしまう小心者のわたし。
主催者が「参加者が少ないし、みんなで役割分担していきません?」と提案があって、各パーツを分担することに。準備も板書する人、セッティングする人。これも「参加者」だったりする。戸惑ったけど、だれ一人それに対して異論もなく、自分たちで学びの場を作り上げていくことに、「参加」しはじめた。
「これ、やります」
「じゃ、これ、わたしします」
「残ったけど、やってみる、これ」
それも「自然に」そして、「心地よかった」のが、正直な気持ち。
仕事柄、場のセッティングをするのに、机の配置、参加人数によることの段取り、資料の印刷にも細心の注意を払うことがある。もちろん、「場」の持つ意味合いにもよるけど、綿密に司会の原稿も用意したりもする。
実は、これって参加じゃなくて「お客さん」にしちゃっているのかもしれない。その中に「主体的」にって難しいんじゃないかな。
その場に、自分の力は必要とされたら、その力をいかんなく発揮される人たちばかりなのではないだろうか…。
「もっと、わたしたちのことを信頼しないと、結局できないだろう。」
そんなことを言われたことが思い起こされてきた。
主体性って、信頼から生まれるのかもしれない。
引き出すとか、引き出されるじゃない気がしてきた。