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「別に死んじゃってもどっちでもいいよ」


小学2年生の娘、さくらちゃんと
近所のお友達のゆうちゃんが
今日も2人でお喋りをしながら下校してきた。
道端に植えてある草や花を
見たり、
転がっている石を蹴ったり
草をちぎって投げ合ったり
なかなかまっすぐは進んで来ない。

小学生の下校タイムが私は大好きだ。
他愛もない話をしながら
今日学校で合唱した歌を
大声で歌ってみたり
通りかかったおばあさんに
元気よく挨拶してみたり
よく分からないことで笑っては
帰ったら何しようか、と話し合ったりしている。

そんな姿を見ると
子どもらしくて
自分の子ども時代の楽しかった毎日が
蘇ってくるのだ。

私は息子が小学1年生の時に、
フルタイムで働くことを辞めた。
初めは、放課後は学童に息子を預けて
仕事が終わると迎えに行った。
家に帰って慌ただしくご飯を準備して、
お風呂に入って寝る。
寝る前の絵本の読み聞かせは日課だった。
こんな毎日にふと違和感を持つようになった。

なんとなく、うっすらと抱いている
罪悪感の正体がわからずに、
モヤモヤと、忙しい日々に追われていた。

なんか、ちがうな。
小学生ってこんなだったかな。
もっともっと毎日がキラキラして
何もなくとも楽しい日々だったような
気がするのだ。
そうだ、
私が子ども時代に1番楽しかった時間は
下校、放課後なのだということを。
そして、それらを誰にも決められずに
思ったままに過ごしていたことを。

息子が入学して夏休みに入った頃には
学童をやめ、
私はフルで働いていた仕事をあっさりとやめ、午前中のみのパートに切り替えた。
子どもたちのキラキラと輝く
放課後が見たかったのだ。
今しかないかけがえのない時間。
自由に自分のしたいことを
思う存分している姿を
お金を出してでも見ていたいと思ったのだ。
その息子そらくんが今は4年生。
私は毎日下校の時間に合わせて
散歩に出かける。
子どもを迎えに行くのではなく、
犬の散歩してる人として、
そばで見守っているのだ。
この距離感がとてつもなくいい。
子どもは子どもだけの世界にいながら
何かあったら
助けられる。
そして何より子どもたちの
親の前で見せる姿とは
少し違った顔を見ることができるのだ。
これが日課になって私の楽しみになっている。

私は愛犬ankoを散歩させながら
「おかえりー」
と声をかけた。
「ただいまー」
と言いながら素通りしていく。
少し離れたところで、
散歩している私にゆうちゃんが言った。
「今日、地震の避難訓練だったよー。もうすぐ大地震が来るって言われてるから、
私たちもしかしたら死んじゃうかもしれないよ。別にもう、死んじゃってもいいんだけどね。勉強めんどくさいし宿題もやりたくないし。やらなくてよくなるなら死んじゃってもいいよ。」

私は少し考えてから、
「えー、ゆうちゃんが死んじゃったら
私が悲しいから絶対に死んでほしくないな。ゆうちゃんのお父さんやお母さんもすっごく悲しいと思うよ。地震がきても自分の命は守ろうね。」
と返した。
 
ゆうちゃんは、落ち着いた表情で
「だったら、どっちでもいいよ。私は死んでも死ななくてもほんとにどっちでもいい。
別に絶対に生きたいわけじゃないから。」
そう言って、分かれ道までくると
「今日は習い事あるから遊べない。
また明日ねー。」
と言って足早に帰って行った。

毎日何かしら習い事があるゆうちゃん。
やめたいって言っても
いつも負けちゃうんだよねって
言っていたゆうちゃん。

自由に遊びまわれる毎日だったら
絶対に生きていたいって
思えるのかな。

そんな時間をできる限り
増やしてあげたいなぁ、と。
ankoとともに背中を見送りながら
つぶやくmamaでした。


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