大学ぼっち誕生のメカニズム①

僕の大学ぼっち概論

 去年までは僕はだいぶ大学ぼっちだった。友達は数えるほどしかいなかったし、遊びに行く友達はいないし、めちゃくちゃキツかったし、辛かった。何より状況を改善しようと動こうとしても、周囲のもうすでに出来上がっている集団に近づくのは困難に思えた。三、四人でわいわいやっているところに今更入っていけるほど勇気も自信もなかったのだ。
 今年はどうか。状況は少々改善した。説明は省くが友達も数人できて、大変気が楽である。サークルにも入り、メイドカフェで知り合いを作り、怪しいバーに出入りし、インターネットコミュニティに入り、そこでまた知り合いを作り、最終的にはそれらの経験値を生かし大学でも友達ができた。
 振り返るとさっさと1年のうちにサークルに入っときゃよかったの一言に尽きるのだが、それに至るのにも気がとにかく重かった。
 自信がなかったのだ。自分に。
 だが、現状に少し余裕が出てきて(これは自信なのかどうかはわからないが)自分の今までの状況を客観的に考えてみたら、この大学ぼっち誕生のメカニズムはなんなのか最近それに興味が湧いてきた。そして、解明できたら世界中の大学ぼっちに対する貢献である。おい待てよ、これはノーベル賞ものだ。
 俺が大学ぼっちに関する文章を書く。感動した大学ぼっちが俺の周りに集まる。大学ぼっちが大学ぼっちじゃなくなる。卒業した大学ぼっちたちが更なる大学ぼっちを助けて、大学ぼっちが大学ぼっちじゃなくなる。世界は平和になる。そして俺はノーベル平和賞を貰う。
 では行こう。ノーベル賞へ(ガバ論理)。

ノーベル賞へ至る筆者の過去回想

 思い出すのは、環境の大幅な変化があったことだ。当たり前だが、大学になると、高校の時とは人間関係が変わる。場合によっては、0から始めなければならない。僕の場合はちょっと特殊で、高校卒業後は浪人生だった。加えて、詳細は省くが家族揃ってこっちに移り住むことになり、高校時代の知り合いすらいないゼロベースで始めることとなった。その頃の自分は人間関係リセット癖の持ち主で、「苦しい受験に甘ったれた関係いらねんだよ!」と痛い思想から数少ない地元の旧友との繋がりを絶った。もうこの時点で大分ヤバいのはおわかりだろう。そう、実際やばかった。案の定通っていた進学塾に馴染めず行かなくなり、引きこもりとなった。これで浪人一年目は終了。
 浪人2年目は宅浪で発狂。狂い火村の住人の如く目から怪しい光を発しながら意味不明なうわ言を発して生きていた、と思う(たぶん)。
 浪人3年目にして、人が介在しないとまずいと違う個別指導塾に行き始めた。精神的に若干更生(この時の恩は返しても返しきれない)。そして、大学に至る。
 そんなわけで大学1年目。高校からストレートに大学には行けず、3年間浪人生として生活していた結果、多大なる学歴コンプレックスと人間不信、加えて人間関係を作るスキルも育たず暗〜い人間となった俺は、見事に友達作りにずっこけ晴れて大学ぼっちデビューを果たしたのである(実際には英語のクラスで2人だけ知り合いができたがそんなしょっちゅう会えるわけではなかったから、普段の行動はほとんど一人だった)。普通だったらここで大学にすら行かずに終わっていたと思うのだが、実はここで大学ぼっちを見越して保険を打っていた。合気道教室に通っていたのである。そこでおっちゃんおばちゃんに囲われて、日常全部ぼっちというわけではなかったわけである。合気道やってなかったら、マジモンのぼっち。家にこもって大学行ってなかった自信しかない。
 そして2年生の現在に至る。
 以上の経験から何がわかるだろうか。少し抽象化してまとめみる。

大学ぼっち生成因子


・人間関係リセット癖がある
・無駄にプライドが高い
・受験の失敗がある。一般的に言うと恥ずかしい(と思っている)経歴がある
・劣等感が強い
・劣等感が強すぎて、人に心を開けない
・対人コミュニケーション能力の訓練が足りなくて、スキルが低い。
・同世代コミュニティに馴染めない。
・環境の変化で0ベースで人間関係を作る必要がある

今回のところはここまで。次回へ続く。
 


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