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地下室の手記を読んだよ


またもや吉本新喜劇だった。まるで休日の昼間にテレビを付けたらやってそうな明るいこてこてのお笑いがそこらかしこに見受けられると言っていい。いや、実際には全くないのだが、この本の度を越した陰湿で激情的で自分も他人もとことん蔑み続けおよそ登場人物全員が負の感情しか撒き散らしていない怒って泣いての嵐の中に、その度を越えた数々のせいかかえって滑稽でまるで望んで笑かしにきてるみたく作用する勢いがあるのだ。
大学生の口癖よろしく逆に〜が何にでも当てはまると思うなと諸君は嘲笑するに違いないが、それは私の主張のなんたるかをとうの昔から知っていると思い込み些末なものどうせぎこちない借りてきた哲学のようなもの、と取り付く島なく一蹴しているのだろう。しかし考えてくれたまえ、この如何にもにわか仕込みの言葉たちは私なりに頑張って本書の文体を真似たものだが、もちろん真似れているとは言い難いのだが、はい僕は賢いこと言えてます感がプンプンじゃないか。主人公の独白形式で話が進んでいくのだが基本ずっとこの調子なもんで、そのフリが効いてて度を越した時にめちゃおもろいというか、コントも神妙な雰囲気漂ってる方がなんか爆笑してまうしね。
罪と罰も同じように新喜劇だった。これが一体ドストエフスキーなのかこの時代の文章の特徴なのかロシアが吉本劇場なのか分からへんけど、文の冒頭と解説からするに作者はこの主人公に自己投影していないらしい。冒頭ではまさしく「私はつい最近の時代に特徴的であったタイプのひとつを、ふつうよりは判然とした形で、公衆の面前に引き出してみたかった」と個人の考えを発表会してるんじゃないと言っている。
独白形式なのに自己投影がなされてない?いやいや恥ずかしがっちゃって!どうせほんとは自己投影してんでしょー?と太宰治相手なら勘ぐってしまうが、こんなに笑ってしまう小説になってるということは、もうこれは作者も笑いながら書き上げたに違いなくて、笑いながら書き上げたんなら自己投影してるはずがない。反対から言うと、自己投影してないから笑える小説が書けるんとちゃいまっか。JTしてるとくっさいからね、己の醜さをなんとか救わんとする臭みがあって笑われへんからね。
だから地下室の手記は吉本新喜劇なのでした。

あとなんかエミリーブロンデの嵐が丘に近さを感じた。やっぱ時代?



前半は地下室で引きこもってる主人公の厭世の極みを延々と見せつけられる。正直わかりみが深くて平野レミ並みに笑みだった。美味。上沼恵美子。19世紀後半の自意識過剰たちも俺と変わらんのやなあと思った。やはり人間の心理の仕組みは皆同じなのではないか、人それぞれだもんね〜分かり合えないよね〜とぬかす方々と断固として闘っていこうと心に決めて静かに頷いた。


苦痛は快楽だと主人公は熱を上げて説明している。昔、「自己否定という苦い甘美」を人に説明できるよう思索していたことがある。苦しくて苦しくてでもその先に赦しを感じる瞬間がある、甘味がある、快楽がある。昔のことやからあの時の感覚を生々しく思い出すことはできへんくて、今は思索しようがないんやけど、この本ではその時の生々しさが少し蘇ってきて懐かしかった。
ちなみに本書で説明されている「苦痛は快楽」はいまいち掴みきれなかった。読み返したいかもしれない。

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