見出し画像

よく知らない国のニュースのような「モテる・モテない」

「モテる・モテない」という事柄に触れたことをきっかけに、ふと思ったことを書き留める。

私は、ものすごく劣等感を抱きやすく、同時にものすごく嫉妬しやすい性質だ。
そんな私の心にひとたび何らかの事柄が引っかかると、重苦しい気持ちになり何もする気力がないまま引きこもったり、我を忘れるような激しい怒りに襲われて堪らなくなったりする。

だけれど、そういえば、モテる・モテないという事柄については、今のところ私の心に引っかかる様子がない。
いかにも私の地雷になりえそうな事柄なのに、そうではない。
まるでよく知らない国のニュースを聞き流すかのように、私はその事柄に特段の関心を持たないでいられている。

思えば、そうだ。
けれど、それはたまたまなのだ。

たとえば、私には友達が少なかったけれど(今現在繋がりのある人はいない)、その友達の間で、モテないことを理由に嘲笑われたことはなかった。
モテる誰かを引き合いに出して、皆で上を見上げるという経験もしなかった。
友達以外の誰かから、モテないことを理由に嘲笑われることもなかった(少なくとも表立って、私の知るところで)。

もちろん、高校生にもなると、席替えで私の隣の席になってしまった人やペアになってしまった人に対し、男女問わず非常に申し訳ないとは思うようになっていったけれど、「男女問わず」と書いたように、そういったことをモテる・モテないという枠組みで捉えたことはなかった。

また、父の影響で漫画はたくさん読んできたけれど、モテるキャラ・モテないキャラのどちらにも魅力的なキャラクターはいたし、嫌いになってしまったキャラクターもいた。
テレビ等でモテる・モテないについての話題を見ても、心に引っかかることなく、笑ったり、つまらないと飛ばしたりしていた。

そんなふうだった。
今、私の視界の端には、プラスチックのカゴが映っている。
そのカゴの色について特別に感情を動かされることがないように、モテる・モテないという事柄についても平静に眺めてきた。

しかしそれは、私がたまたま、「モテる・モテない」という事柄について、苦しい意味で当事者になることがなかったからだ。
今現在も続く人間関係の乏しさゆえに(乏しいどころか無に近い)、その事柄を理由に、焦らされたり嘲笑われたりするような経験をしてこなかったからだ。
そうして、自分の生死を左右するような重たい価値を、その事柄に置くことがないまま生きてきたからだ。
そう、これまでは、たまたま。

断っておくと、私は、容姿の美醜という事柄についてはものすごい劣等感を拗らせている。
これは多分、私がたまたま、「容姿=その人の価値」とするような人のもとで育ってきたことが少なからず影響している気がする。
そんな私は、知らず知らずのうちに容姿の美醜にとんでもなく重たい価値を載せて、これを理由に、これまで自分の人生を幾度も台無しにしかけてきた。

だけれども、かといって、「容姿が美しいからモテる」とか「容姿が醜いからモテない」というふうに繋げてみても、どうもピンとこない。
繋げた途端に、渦巻く激情がぼやけて、我に返る。
「でも、ああいうこともあるからなぁ…」と目線を上方に考えを巡らせ始める。

そう、ピンとこない。
ピンとこないというよりも、「私を劣等感や嫉妬に苛ませ、発狂させるに至るあの暴力的なパワー」が、途端に鳴りを潜める。
私を自滅させる暴力的なパワーを、そこに感じられなくなる。

こう考えてみると、ある事柄が心に引っかかり自分を苦しめることになるか否かは、きっと偶然によるのだ。

モテる・モテないという事柄については、私にはたまたま心に引っかかるきっかけがなかった。
他方、容姿の美醜という事柄については、私はたまたま心に引っかかるきっかけを得た。

こんなふうに、心への引っかかりが偶然にのみ左右されているのだとしたら、心に引っかかる事柄もそうでない事柄も、実はそれほど大したことはないものなのかもしれない。

大したことのない、というのは、「あるときはそれを見過ごせるし、あるときはそれを平静に眺められるし、あるときはそれについて少し考えてみることもできる」という意味で…。
それに触れても、まったくニュートラルな感覚でいられるという意味で…。

今現在、私はどうしても容姿の美醜についての苦しみから抜け出せないままでいる。
けれど、誰かにとってはこの事柄も、「よく知らない国のニュース」なのだろう。

よく知らない国のニュースを聞き流して、凪いだ心、柔和な顔でいる誰か。
私も、そのうちに。
想像すると、少し気分がよくなった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?