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やったことがあるとかないとかより、やってみたいってことが前に出てきた経験を経て

「やりたい」という意思表示をどれくらいできているだろうか?

やってみたいな、と頭に浮かぶことはあっても、「やりたい」「やる」と動き出せた数は、少ない。


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「どうしてコルクラボ本プロジェクトに参加しようと思ったの?」と聞かれたとき、出てきたのは「やってみたかったから」。

コルクラボ のことを知りたかったとか、本作りに興味があったとか、プラジェクトに参加してみたらもっと仲良くなれるかなと思ったからとか、理由らしい理由はあるにはありそうなんだけど、

ただ、「やってみたいと思ったから、やってみたいって勇気をだしてみた」ことだった。

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「人生において、出会える人、見られるシーン、得られる経験は残酷なほどに有限。」というメッセージを、だいまりが記していた。

だいまりのメッセージを読んでいて「私は得たものにしがみついてしまう」自分を見つけた。

やったことがないことをやるには、体力がいる。勇気がいる。不安が押し寄せる。
先のことを考えて悩むより、今できることをやっている安心を選んでしまうことがある。

それが決して悪いわけではないとは思う。できることを積み重ねていく日々が、自分の中に「できる」を増やしてくれて、それが、できないことへのチャレンジができる力にもなる。

ただ、「できることの繰り返し」が、自分にとって「楽しいこと」であるかは、必ずしもイコールにならないし、繰り返しの中にむなしさが増えていくことも事実だった。


やったことがなくても、やってみたいと思えることにチャレンジできる場を作るにも経験が必要なのかもしれない。

私はチャレンジの場を「仕事」に求めることが多かった。

転職活動をしていた時は、「未経験」であることは大きな壁だった。それを超えられる学歴や知識や、経験や魅力や動機が自分には足りなかったのだと思いながらも、チャレンジする場にすら立てない自分がとても惨めだった。

だけど、チャレンジする場は会社でなくたってかまわない。
会社ではないコミュニティで、チャレンジできる場を作れることを、私は初めて知った。

2019年は、コルクラボというコミュニティで「本を作る」という初めての経験をした。制作過程の中で、取材や執筆、企画や編集などの作業や、チームビルディングやコミュニケーションなど、私にはチャレンジの連続だった。今まで自分が得てきたものをフル動員しても、足りないことだらけだった。

そして、今まで自分が得たことがなかった、喜びと悩みと不安と興奮でいっぱいだった。


このチャレンジの中で、自分にとって一番予想外だったことがある。

プロジェクトに参加を決めた時には思い描けなかったけどずっと楽しみだった「この本ができた瞬間」を迎えたときは、「自分への不信感」でいっぱいだったことだ。

今まで「得たことがない結果」「得たことがない経験」「得たことがない感情」が大量に詰まった自分を、私は持て余していたのだと思う。


本を作るのは、出版社の役割で、出版社に転職したら本が作れる。ライターになるには経験が必要で、本の原稿を書くには何かしら学んでいる人の方がいい。
そんな「これまでの自分が得ていた知識」で判断したら、今回の経験は不可能なものだったと思う。
「自分には経験がないからダメだ」ということにしがみついていたら、チャレンジはできなかったと思う。

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「自分がどんな人生を歩みたいのか」といった類の問いが、私はとても苦手だ。「あれがしたい、これもしたい」と素直に口にできない。

「できないかもしれない不安」が大きく自分を覆う。

やったことのないことへの挑戦に、寛容でない環境にいる場合もある。
できることだやっているほうが、平和で穏やかにめんどうくさくない日々を送れることも多い。

しかし、だいまりのメッセージを読んでから、「限られた時間の中で、自分が出会いたいもの、経験したいことを我慢している余裕などあるのだろうか?」と考えている。

得たものだけで自分の基準をつくり続けていいのかと、考える。


自分の心の中はいつだって矛盾だらけだ。

チャレンジする不安と、チャレンジできる喜びを知った自分を、私はまだ少し持て余しているようだ。

もう少しだけこの曖昧さを許したら
少しだけ、自分の中から曖昧さを手放す経験をしてみようと思う。

たてまえでも本音でも
本気でもうそっぱちでも
限られた時間の中で 
借り物の時間の中で
本物の夢を見るんだ
<夢/THE BLUE HEARTS>

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まろん
ありがとうございます。ロックンロールと生クリームとマンガと物語に使いながら、自分の中のことばを探っていきまます。