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「公式が言ってるだけ」問題

 映画やアニメ、漫画などの監督・著者インタビューを見て、ショックを受けることが昔よりも増えたなと思うようになった。
 ネットやSNSが当たり前になって、作り手の人たちの制作秘話が目につく機会が増えた。良いことだと思う反面、嫌だなというか見たくなかったなと思うのは、自分との解釈違いが発生する場合で、特に「カプ厨」を自認する自分としては、好きなキャラクターの話などは流れてくると大きなダメージを受けることが多い。

 自分と作り手の人たちとの見解が大きく異なる場合、自分は作品自体の映像や表現から自分が感じた感想や解釈を優先するようにしている。
 ただ、そうは思っていても厄介なのは昨今のSNSで、自分の作品の見方がマイノリティだったりすると、タイムラインに流れてくる情報のマシンガンに蜂の巣にされてボロ雑巾のようになり、天に召されそうになる。
「自分の思い通りの展開にならないからって文句ばっかり言って!」というような意見もわかるのだけど、ニュアンスがちょっと違う。問題なのは、登場人物の行動や作品の設定に納得できるだけの説得力があるかどうかではないかと思っている。

 将棋の世界に「盤上この一手」という言葉がある。他の指し手を選ぶ余地がなく、必然的に指し手が決まっていることをいう。
 一般的なモラルや善悪を抜きにして、この人物ならこの局面ではこう動かざるを得ない、それを観客に提示できているキャラクターはとても魅力的だと思うし、自分の場合、そういうキャラや作品は完結しても長く記憶に残る。
 逆に、作品内で動機的な提示がないままチグハグな行動をとるキャラクターは、感情移入ができなくてかなりしんどい。それが好きなキャラクターだと尚更辛い。
 2年以上前だと思うけど、高校生の演劇のコンクールを見た漫画家の方の体験記があった(残しておきたくてネットで探したけど、見つけられず……)。総評をするプロの演出家の方が、あるチームのセットに長机が使われていることに「なぜ長机をそのまま使ったのか?」という指摘をしていて、強烈に印象に残っている。

「観客は、高校生だから仕方ないとか、準備する時間がなかったんだねとは思ってくれませんよ。ただ『手抜きだな』と思うだけです」

 大袈裟かもしれないが、仕事や家の事情で旅行に行く時間もない自分にとって、映画やアニメ作品に触れることは心を旅させる行為なので、設定やキャラクターの行動心理に「納得」できるかどうかはとても重要だ。「手抜き」だと感じるスキマもないくらいバックボーンがきちんと描かれているなら、好きなキャラクターが死亡しようが闇堕ちしようがお気に入りのキャラとひっつかなかろうが、納得できる。納得できない場合、自分は「公式が言ってるだけ」だと思ってしまう。
 納得できるかどうかのキーは、生の「人間」が描かれているかどうかにかかっていて、それは映像の綺麗さや音楽の素晴らしさとは別の部分の問題なのではないかと感じる。

 それほど思い入れのない作品なら軽く流して見れるのだけど、好きな作品ほどそんなことを徒然考えてしまって、我ながら厄介である。すぐ感情移入して泣いたりするので、本当は映画やらアニメを観るのも向いていないのかもしれない。
 偉そうなことを書きながら、まずは毎回大量に発生する自分の誤字脱字を無くそうねと思う今日この頃です。

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