ラムネ
小さい頃からラムネが好きだった。
たぶん、きっと、
あの綺麗な瓶にビー玉、そしてしゅわしゅわな炭酸の泡。
その姿に魅力を感じていたのだと思う。
でも、私は一度もそのラムネの蓋を自分一人で開けられたことがなかった。
どういう仕組みなのかがよくわからなかった。
でも手こずっていると、
「どれどれ」と開けてくれる人が、必ずいつもそばにいた。
それは、
祖父であったり、
祖母であったり、
父であったり、
母であったり、
親戚であったり、
恋人であったり。
それで私はいつまでもラムネの開け方を覚えなかった。
ラムネを好きでありながら、
『人に頼って飲むのが当たり前の飲み物』として
私の好きなものであり続けた。
その時の私は『いつも誰かに頼るのが当たり前になっている』
ことが全く自覚できていなかった。
この話の流れだと
『一人じゃ気づけなかったこと』ではなく
『一人だから気づいたこと』ではないか
と思われてしまうかもしれない。
でも私はこう思う。
『初めから一人だったら色々な自覚は生まれなかった』
『色々な人に助けられてきたからこそ、その存在の大きさに気づいていく』
のだと。
先日、久しぶりにラムネを買った。
開け方がいまだにわからなかった。
けれども、やろうと思えばできた。
こうするんだったのか、とその時初めて知った。
この歳になり、
やっと自分でラムネを開けられたことに感動すると同時に
「今まで私は一体どれだけのことを周りにやってもらっていたのだろう」
と恥ずかしくなった。
なんだかちょっぴりだけ、寂しくもなった。
『誰かがいると思う甘え』
これが当たり前のことだと思わなければ、必ず人は自分でなんとかする。
私は今まですごく、両親や恋人に甘えてきたのだと思った。
これは、
一人じゃなかったから、
温かい人たちが周りにいて恵まれていたから、
気づいたことであり
一人じゃ決して気づけなかったことである。
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