情報を求めて

読むって行為が、基本的に情報量を求めているらしい、てことになるほど。私は本を読みたいわけではなくて文字を読みたいんだろうなとは薄々思っていたから、xって性に合ったんだよね……

なんか目新しい文章がセンテンスくらいで流れてくるっていうのはもう養殖場のコバンザメ。いずれかの宿主にくっつく気力もなにかしらを生み出す器量もなく、ただただ消費するのみ。コバンザメっておいしいのかな……。
果ては感情の浮き沈みすら、そのセンテンスで指向されて惹起するわけ。まあxがなかったとしたらテレビに齧り付きだったような人間なのかもしれない。
xは質量共に広がっていると思うから、その分多少の選択はあるのだろうけど、結局ある程度の方向性を持って情報を受動的に受け入れているのは変わりない。
テレビ新聞雑誌から、能動的に発信する社会が訪れると言われたのに、結局こうして怠惰な人間は受動的に情報を摂取するに至るのだ、といういい見本……。

5年前くらいからあんまりに自分が大衆的な人間ということにある種諦めを持っていたけれど、変革の道をわかっていて取らなかったのだから本来は諦めの思いももつに値しないのでは?と思ったり。
発信者の発信者たる所以は能動的な活動にあるのだから。

本読むのたのしー!文字読むのたのしー!Twitter?ROM専ですー

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