家族の顔出しパネル

家族という言葉は何を指すのか。家族や血という括り方にとても大きな違和感を持っている。家族と距離を置き、あまり信用していない自分。それでも家族について考察してしまう矛盾。

子どものころ、小学三年生辺りからか、ぼくはあまり写真に写らなくなっていた。実家のアルバムを見ると、ぼくの写真がある時期から一気に減っているのがわかる。学校で撮る写真や友だちと撮る写真には普通に写っていて、家の写真には写っていない。その差についてあんまり意識してこなかったのだけれど、多分「家族」というものに自分が記号化されることを恐れていたのだと思う。去年亡くなった叔母と写った唯一の写真でも、椅子に座ったまま膝に顔を押し付けるようにして隠している。その写真を今掃除しながら見つけてそのことを思い出した。

顔とはなんだろう。ぼくは人の家族を見ても、あまり似ていると感じたことがない。「親子だから似ているね。」「やっぱり姉妹ね。」とみなが言う声を覚えている。そんなシーンは何度も繰り返された。殆ど共感したことがない。もちろん似ていると思う人もいるけれど。「ねえ」と共感を求められると曖昧に返事をする。自分の子どもを指さして、目元が私に似ているでしょと言われる。曖昧に返事すると不満気な、どこかさみしそうな顔をするから、普段よりは少し強めに頷く。でも似ているとは思わない。それは「家族」という記号に当てはめて見ているからそう見えるだけで、精彩に分析したら近似値は他人の空似の方が高かったりするのではないか。家族という名前の顔出しパネルから、みんな顔を出して写れば、みんな似ているのだ。

子どもとは未知のものだ。もしかしたらそれを恐れて何か似た場所を人は探すのかもしれない。その得体の知れない生き物を自分へと近づけるために。何か恐ろしいものが目の前に迫ってきたときに、自分の知っているものにそれをなぞらえて捉える、人間の心理みたいに。(たとえば未知のコロナを、普通の風邪と捉えるような。)

ぼくの両親はふたりとも眼鏡をかけている。家系にも眼鏡をかけている人が多い。ぼくも目が悪い。普段から眼鏡はあまりかけないのだけれど、居酒屋に行ったときにメニューが見えなかったりするから出かけるときは持ち歩く。家族と会うときも一応持ち歩くのだけれど、なるべく眼鏡をかけないようにしている。多分さっき言った、顔出しパネルを具現化したみたいに思えるのだろう。

こういう話をすると、解決しなければいけないというような正義感を向けられることがある。家族とは仲良くしなければいけないという正しさを押し付けれられる。別に仲が悪いわけでもないけれど、たとえ仲が悪いとしても余計なお世話だし、家族とはみな美しい絆で結ばれているなんていうのは、うそっぱちだろう。みなが同じということは、何に於いてもないのだから。

多分過ごしてきた時間が長い分、信じられるところの見極めがつき、また信頼関係を作り上げる時間が他人よりも十分に取られているから、それを無邪気に信じられる人も多いのかもしれない。だからそういった話をするとき、その人たちはとても澄んだ目をしている。疑いを持っていない。色々な物語がそれを後押しするのだから、それは当然なのかもしれない。家族が壊れていく様を描いたとしても、それは家族とは壊れないものであるという前提がそれを悲劇的に魅せるのであって、後押しする意味では同じことである。無論、それらの物語を批難するのではない。むしろ、過ごす時間が長いということは、それだけの経験を得るということなのだから、物語にはなりやすい筈なのである。家族を描いた物語で好きなものがたくさんある。しかし当然や当たり前は疑ってかからなければならないと常に思っている。

もちろん、家族と過ごす時間が長くない人もいっぱいいる。家族のことを知らない人もいる。問題なのは、それら以外の「家族」が前提になっているということだ。子どものころには、必ず家族との思い出があって、平和な時間の経験があるという、恐らく歴史の浅い「家族」という幻想を当たり前としていることだ。そもそも核家族世帯が当たり前になったのなんて、ここ最近の話だし、それ以前の家族のあり方も、時代ごとに大きく変わっているだろう。「家族」という言葉が指し示すものが、時代によって違う。時代という縦軸でも、同時代での横軸でもそこに差異が生じてくるような、非常に曖昧なものが家族という語彙なのだと思う。

ケイン樹里安はマジョリティという言葉を「気にせずにすむ人々」と翻訳する。私がよく押し付けられる家族像というのは、恐らく気にせずにすむ人々の「家族」なのだろう。無論、その「家族」の中にも気にしている人もいるという可能性を忘れてはならない。むしろ、そっちの方が多く、しかしマジョリティ故にそれは間違っていると、口を閉ざした人がいっぱいいると想像する。気にせずにすむというのは、何にも気づかないということだ。それは彼らの言う「幸せ」とはずいぶん違うと感じる。

そういう私も漠然と「彼ら」とまとめて一体何を見ているのだろう。たまには眼鏡をかけてじっくりと観察してみたい。

誰も傷つけないお笑い、という言葉が一度浸透したけれど、そんなものは存在しない。誰も傷つけない表現なんてものはない。世の中がハッピーで幸せな言葉ばかりになったら、ぼくは死にたくなるだろうし、見つけた暗さに生きようとすることもあるのだし。がんばっている君を応援する歌があったら、がんばっていない自分の存在価値はないのではないかと傷つく人もいるだろうし、何かを笑う行為は何かを否定する行為なのだから、それが笑いの本質である限り誰も傷つけないということはない。否定と更新が表現において重要なことのひとつだろうから、どんな表現でもまた。

否定という言葉を安易に使ってしまったけれど、正しさと間違いではこの世界は計れない。あまりにそれぞれの事情で世の中は溢れている。だからその中でよりよい方を探るために言葉があるのだろう。

サポート頂けると励みになります。