志賀理江子「ヒューマン・スプリング」

東京都写真美術館に志賀理江子の展示を見に行った。

同じく志賀理江子の展示「螺旋海岸」を見に行ったことを思い出す。夜行バスで仙台まで。とりあえず時間ができたから、当日に慌ててバスのチケットを取って、仙台に向かった。日付を意識していなかったが、その日はクリスマスで、仙台の並木を彩るイルミネーションが異様に綺麗だった。町は冷え込んでいて、時折、コンビニに入って暖をとる。それからまた綺麗な白い光を見ながら歩く。それはもう夜の記憶だ。夜行バスが仙台に着いたのは朝。それから日の沈むまでずっと、志賀理江子の写真を見ていた。写真を見ていたのか?空間を見ていた。それはとにかく異様な展示だった。

それで詩を書いた。

「穴を掘る」
それは行為だ
持続する行為
繰り返される行為
意味はない
意味という意味はない
ただそれは「穴」なのだ
穴を掘るを行為する人々
そこに見えるのは「永遠の生」だ
或いは底に
言い換えれば「死」である
莫大な時間と静止した時間が同義であることに誰が気づいたというのか
運動に従事する
ただ穴を掘る
ひたすらに
それらの穴はやがて繋がり螺旋を描く
果てしない砂場でピクニックをする人がいる
運動に従事する
穴を掘る
運動に従事する
穴を掘る
「私」はいない
「穴を掘る人」がいる
「穴を掘る人」「穴を掘る人」「穴を掘る人」
記号が集合している
生活だ。
生活をしている。
その中に横たわる夢はいったいどんな色をしている
道に佇む老婆は幻色をしている
空は幻灯機に照らされている
耳を失くした少女は一体どこへ飛び立つというのか
私にはわからない
私にはわからない
わからないということを思考し続けている
わからないことを思考し続けている
そして穴を掘る人がいる
そうだ
生活だ。
生活をしている。

タイトルは「生活」

この時は実家で暮らしていて、兎に角早く家を出たかった。家にいるのが嫌だったから、わざと終電を逃して遊んだりした。だからその時の私が書いた詩には、生活というものに対して、暗い感覚が垣間見える。それに加え実体のない得体の知れないようなものとして捉える感触。

今は一人暮らしをしている。そんな今書く詩や文章を読むと、その頃と「生活」という言葉に対する接し方が違う気がする。それは実感をもって生活しているからだろう。今書く「生活をしている」にあの頃の感触は持たせられないだろう。

たとえばこないだnoteに載せた「今日のかなしみ」という詩には生活という言葉が数回出てくるが、それが意味するところは180度違うだろう。

しかしそれは僕の生活が変わったからというだけではないのかもしれない。例えばカネコアヤノ。カネコアヤノが生活のことを歌うことが増えてから、ファンが増えていったように思う。僕もその一人だ。

この曲がラジオから流れてきて、感動して、それからライブを見るようになった。この曲が入ったアルバム「祝祭」には生活が溢れている。そして最新曲もまた生活の実感から描かれる曲だ。

音楽で言えば、aikoの現時点での最新シングル「ストロー」も生活を歌っている。今までのaikoはこんな風に生活を歌に取り入れていなかった気がする。

それから「この世界の片隅で」が生活の側から戦争を描いてヒットしたことを思い出す。それが切迫して描かれていたことを思い出す。

これらが登場し、大きな評価を得ていることを思う。生活というものに対しての愛着を求めている人が多くいるのは、生活の実感からあまりにかけ離れたことが多く世間を賑わし、色々なものがその手元から離れていこうとしていることへの不安からだろうか。

とても話が逸れた。随分と遠くまで来てしまった。

志賀理江子の「ヒューマン・スプリング」を見に行ったのだった。

展示スペースには四角い立体が並んでいて、その面に写真が張られている。写真がそれぞれの面を構成している立体が並んでいるといった方がわかりやすいか。一面に引き延ばされた写真が艶かしく躍っている。

画像1

正面、それから側面、それぞれに張られている様々な写真を順路もないから、ふらふらと見る。それからふと後ろを振り向くと、複数の立体の背面には一人の男を写した同じ写真が、すべてに貼られていて、そのすべてがこちらを見つめていた。

丘陵の墓を思い出した。それは香港に行った時に見た墓場だ。バスに乗っていて、丘一面に広がる墓石に圧倒された僕は、バスを降りて、そこに向かったのだった。

墓の群れ。四角い墓石が斜面に沿うように無数に立ち列んでいる。道路から階段を下りて、墓場に入る。あれは夕方頃だったろうか。なるべく墓の範囲に入らないように足元に気をつけながら墓の間を歩く。どうしても踏んでしまうところは頭を下げながら。墓石の背面がいくつも下の方まで続いていた。ふと振り返る。降りてきたところから墓場を見上げる。すると無数の写真がこっちを見ていた。墓石の正面には写真がそれぞれ貼られていて、それらの肖像写真がみな一様にまっすぐ前を見ている。そのすべてがこちらを見つめていた。

灰色の墓石に貼られたカラーの写真は浮き立って見えて、時々置かれている花よりも鮮やかにこちらを見つめていた。

それを思い出した。

展示室は時々暗くなった。そしてまた明るくなる。人間の春と名付けられた写真群を縫うようにしてふらふらと歩く。視線を感じて振り向くと、また男の写真がこちらを見つめている。

志賀理江子の写真は「これは何を写している」とはっきり表現し得ないものが多い。人が何かを見るとき、脳が取捨選択をしていて、目に映っても見えていないものがいっぱいある。すべての詳細を把握することはなく、一部に焦点を合わせる。そうやって見過ごしてきた。志賀理江子の写真に写っているのはそういう見過ごしてきた何かを、写真という枠内を平等に写しこむ方法によって、見せつけている気もする。当然、そこにも取捨選択があるのだが。

また詩を書いた。

人に見えた。そこに人はいなかった。もう一度見ると、やはりそこに人はいた。

手がないように見えた。手はなかった。もう一度見ると、そこに手はあった。

足踏みを確かめる。歩みを確かめる。

鳥と思った。鳥と思ったら人だった。天井を伝う人だった。

赤と思ったら、赤色だった。やはりそれは青色だった。

服を見つけた。散らかった服はみんな息のいい小鳥だった。

小石を拾った。小石と思ったそれは星座だった。

映りこむ。不意に視線が映りこむ。
目を合わせようとする。

雪だ。

光だった。ゴミだった。雪だった。

うなずいてはいけない。

うなずいてはいけない。

雪でなく、光でなく、ゴミでなく、塵でなく、雫でなく、星でなく、ほこりでなく、砂でなく、傷でなく、霞みでなく、幽霊でなく、透明でなく、

人に見えなかった。見るとやはりそこに人はいた。

「still man」という詩。この詩はどんな意味を持つのだろう。

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