JOKERという喜劇

JOKERを観てきました。ネタバレするので、気にならない人は読んでください。正直ネタバレどうこうっていう映画ではないので、気にしなくてもいいと思います。そもそもネタバレでつまらなくなる映画は最初からつまらない映画だと思いますし、シックスセンスはネタバレされても面白い映画だと思うからです。


笑いとは裏切りだ。前提を覆したところに笑いがある。前提とは何か。それは場によって異なる。たとえばそれが世間の常識であった場合、世間ズレした者は笑いの対象となる。これは喜劇の基本的な構造だろう。

そういう意味でジョーカーは正に喜劇役者だ。彼の行動は「世間の常識」から逸脱している。しかし一方でジョーカーにとってそれらは悲劇であったのか。

彼は世間に裏切られ続ける。前提を覆され続ける。信じた母、恋した女性、信じていた市長、職場の同僚、憧れのコメディアン。喜劇を愛した彼にとって、それらを喜劇として楽しみ笑い声をあげることが、いかに喜劇的であったか。

そして彼もまたコメディアンだ。彼の行動はすべて裏切りだからだ。憧れの番組、生きた中で最も輝かしい瞬間に自殺することは、正に裏切りだ。それをも裏切り、憧れのコメディアンを射殺することもまた裏切りだ。徹頭徹尾彼はコメディを演じているのだ。

演じている。彼がコメディアンを演じているとき、それは喜劇になる。しかし生活の中で、それは悲劇だ。演じたとき、コメディアンになったとき、それははじめて喜劇となる。そしてこれは映画だ。彼の人生を描いた。だから悲劇が全面に映される。喜劇は彼の主観であるからだ。スクリーンの上で彼はコメディアンを演じることはできない。

コメディの中で主人公たちはそのズレを認識しない。ズレた認識を信じ続ける。だから歯車はずっとズレていて、笑いは継続する。ジョーカーはそのズレを認識してしまっている。だから観客にとってそれはコメディになり得ない。

憧れのTVショーでも彼は裏切られたことへの怒りを隠さない。裏切られたことを認識している。だからそれはコメディになり得ない。そして裏切られたと認識するということは、常識があるということだ。常識を通したところに裏切りがあるのだから。

彼は常識人なのだ。ズレを認識できないチャップリンのようなコメディアン達には並ぶことのできない。彼が愛した世界がコメディアン達の世界なのだとしたら、それらのコメディアンのズレた認識こそが前提なのだとしたら、彼は一級のコメディアンであろうが。

そう。だから彼は一級のコメディアンなのだ。世間がズレた認識を信奉している世界において、彼が疑うことなく常識や善意を信じていることは、まさしくコメディなのだ。彼はその常識を信じ続けるのだから。

「悲劇」とはwikipediaによると、「多くは主人公となる人物の行為が破滅的結果に帰着する筋を持つ。」ものであるらしい。果たしてこの映画はそうか?彼は破滅したか?彼は祭り上げられた。それは正に喜劇なのだ。

悲劇と喜劇は裏返し、転換はいつでも起こる。何がズレかは前提による。にゃんこスターのネタはキングオブコントという場において、完璧なズレを演じておりそれはウケた。しかしキングオブコントを知らずにただその評判だけでそれを見たときには、面白さが激減するだろう。前提が変わっているからだ。お笑いは複雑だ。

怖いネタと言われてよくあげられるのが、きぐるみピエロのネタだ。公園の清掃員が、パントマイムをして公園に住み着いている「変な人」を公園から追い出すコント。パントマイマーはフェラーリに乗って帰っていく。もちろんパントマイムで。そして清掃員はほうきを手に取り掃除に戻る。するとパントマイマーが戻ってきてこう言うのだ。「お前だってほうき持ってないじゃん」

大体観客に悲鳴があがる。その中における常識が覆された瞬間。それはつまり喜劇であるのだが、起こるのは笑いでなく悲鳴。何も持っていないその人をほうきを持っていると認識しているあなたたちこそがズレているんですよ、というオチだからだ。観客こそがコメディアンであり、笑われる対象であると、指さされたから笑えないのだ。自分たちの常識を信じているから。

自殺も殺人も、その人個人の責任ではなく、社会が起こさせた殺しであるのだと思う。だからそれらはすべて他人事ではない。その引き金に手をかけているのは他でもない私たちだからだ。ジョーカーが人を殺すのは個人の行動としてではなくて、社会がそうさせている。銃の引き金を引いたのはジョーカーではなく、世間なのだ。

あれほどの個性を放ちながら、彼の行動すべてが世間に動かされているということ、やっぱりジョーカーはコメディなのだ。じゃあなんで笑えないのか。それはきっときぐるみピエロと同じ。指さされたから笑えないということだ。

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