誰かを否定したり自分を卑下したりしないお笑い

 以前、「誰かを否定したり自分を卑下したりしないお笑い」という再生リストを作った。今でもたまに更新している。

 (ホントは、佐久間一行の井戸のオバケ(R-1でやってたやつ)とか、ハナコの犬のやつとか、千鳥の医者のやつとか入れたい。)

 何か最近は、かが屋が流行ってきて、この視点が普通になってきた気がする。でも改めて、前プレイリストを作った気持ちを思い出しつつ、それについて書いてみる。

 「お笑い第七世代」という言葉が広まりだしている。霜降り明星がm-1で優勝してからだ。せいやが言い出したらしい。そして私の言う「誰かを否定したり自分を卑下したりしないお笑い」というのも、この「第七世代」の芸人辺りから突出して登場している気がする。

  誰かを否定することで起こる笑いがある。それは確かにある。そもそもお笑いというのが既存の価値観を否定するところから始まるのだから当然だ。例えば漫才のツッコミ。相方の発言に対して、それは違うと真っ向から否定し、訂正する。それが今まで積み上げられてきた漫才のシステム。それはコントにも踏襲されている部分が多い。漫才は型という部分で見てられるかもしれない。コントだとそれはボケでもなんでもなく「変な人」がする「変な行動」「変な発言」になるから、少し話が変わってくる。バラエティになると、その人個人の人格に関わる話になってくる。そもそもツッコミが正しいという視点を共有しなければいけないが、正しいという価値観そのものがもう古くなってきている気がする。

 それぞれにとっての正しさがある。だから全体の正しさなんてない。正義なんて言葉はない。それぞれにとっての正しさを他人に押し付けているだけだ。そしてそれは他の人の正しさからしたら悪にすらなりかねない。例えば戦争。もっともわかりやすく、もっとも陰惨な例ではないだろうか。

 だから正しさを前提とした「ツッコミ」という型に違和感を感じ始めている。すべてのツッコミは否定か。と問われればそれは違う。肯定を含んでいるものがあったり、全否定しないものもある。例えば千鳥。思わず笑いながら突っ込んでいるシーン。それは誘い笑いにもなって客席に笑いを起こす。楽しそうな漫才。そのツッコミはボケという人格を否定していない気がする。

 東京03。日常にいるあるあるという人物に対するツッコミ、おかしいだろと叫ぶ。執拗な叱責、からの逆ギレ。開き直り。「日常」から徐々に「ファンタジー」「起こりえないこと」へと移行し、実際にいるであろう人物の全否定をうまくズラしている。

 誰が人を否定する権利があるのだろう。誰がそれを笑うことができるのだろう。

 漫才のツッコミを大まかに「間違ってますよ。」という訂正だとする。何かおかしなことを言っている人がいて、それをお客さんの立場で「おかしいですよ。」と訂正する。そういう見せ方。
 その語気が段々と強くなって「おかしいだろ。」とか「まちがってんじゃねえか。」とか「何を言うてんねん。」とかになって。どつき漫才とかが登場して、それをまた否定するものが現れる。お笑いは既存の価値観を否定するところから始まる。前提とされているものがあって、それからズレたものが笑いだ。ということはお客さんに共有されている前提を、覆すのがお笑いだ。だからお笑いはカッコいい。漫才の型は更新され続ける。

 ではまんじゅう大帝国の漫才を見てみる。ツッコミはすべてを肯定する。おかしなことを言っているボケの言葉をすべて認め肯定するのだ。これが笑いになるのは何故だろう。それは間違ったことは指摘するのが当たり前という価値観が前提にあるからだ。少なくとも漫才の舞台上ではそれが大前提だ。果たしてそれは舞台の上だけだろうか。

 イジりという言葉が広く使われるようになった。そうして素人が素人をイジる構図が生まれる。そこから面白い笑いが生まれる可能性は低い。それはツッコミではなくただの否定だからだ。技術のない視聴者に知識や語彙だけが広まっていく。一昔前に流行ったKYという言葉や、からの?という煽り、オチを求める耳。

 お笑いは時代を映す鏡だ。今、まさに今、面白いと思われなければ笑いは起こらない。大多数に共有されている認識を意識し、それに対するズレを見出さなければ笑いは起こらない。漠然と大多数と言ったが、劇場ならばそこにいるお客さんの認識を捉えることが重要だ。刑務所の慰問とイオンモールの営業で違いがあるのは当然だろう。テレビで披露されたネタや発言が問題視されることがよくある。テレビを見る人の世界認識をうまく捉えきれていない所為だろう。思い出すのはもう昔のことのようだが、保毛尾田保毛男の一件。あれが面白くなく映ったのは現状認識の甘さに他ならない。これだけLGBTという言葉が広まりだした中で、ただなつかしキャラというだけで出してしまうのは笑えないだろう。それを笑っていたこと自体を問題視し、あえて時代の鏡として登場させ、その時代を笑ってしまうというような転換が必要だ。そういう疑問を一度も浮かべずに懐かしいからと出してしまう感覚を見た時、みなさんのおかげでしたの終了には、とても納得してしまった。

 俺はとんねるずが嫌いなわけじゃない。そもそもとんねるずは部室のノリをテレビに持ち込んで、時代の人となった。それは今までにない存在だった。だってそれは部室のノリに過ぎなかったのだから。そしてそのままとんねるずは部室をテレビの中に変えて、その場のノリを笑いにしてきたのだ。部活には段々と後輩が増えていく。先輩は次々といなくなり、たまにOBがたずねてくることはあるものの、いつしか部で「一番偉い人」になっている。それは部室のノリだから、後輩は笑うし、周りも笑う。でも部室から一歩外に出たなら、もう古くて伝わらないものになっているだろう。世間を巻き込んでしまう程のエネルギーがなくなってしまった今では。そして後輩たちには後輩たちのノリがある。そのノリは先輩が帰った後の部室の中でしか起こらないのだ。 

 たまに懐かしい部室のノリを思い出して笑うこともあるだろう。でもそれは懐かしさから来る笑いだ。俺はまだ新しさを求めている。

 ここ十年以上、ナードが活躍するハリウッド映画が多い気がする。ヒーローの意味が変わってきている。正義の意味が変わってきている。強い者がふりかざす正しさが正義であった時代は終わろうとしている。学校のクラスの中のカースト。とんねるずは間違いなく上のカーストが作る笑いだ。(パソコンの変換に戸惑う。敗者は変換できるのに強者は変換できなかった。敗者の方が言葉としてよく使われるということ。敗者の方が世の中には多いということ。)

 部室のノリ。例えばオードリーの関係性は正に部室の延長線上にあるだろう。でもとんねるずとは違う。何が違うのだろう。例えばくりぃむしちゅーの関係性は部室の延長線上にあるだろう。でもとんねるずとは違う。何が違うのだろう。大きさだろうか。(二つの例には偏りがある。俺がラジオを好きすぎる所為だ。)

 四千頭身の漫才は友達同士の会話だ。新しいゲーム考えたんだ。えっやってみようよ。というようなどこにでもある会話。でもなぜか面白い。そういうゲームをやって起こる笑いをうまくネタに落とし込んでいる。そしてそれが今ウケる理由には、四千頭身がクラスの中でカーストが低そうという印象が関わっているような気もする。

 誰かを否定してのし上がる。そういう競争原理の時代はおそらく終わりつつある。だから目立たないやつらが目立たなさを卑下することなく、確かに面白かったことを、面白かったと胸を張って言う。それがちゃんと面白いものとして伝わる。そういう時代なのではないか。

 肯定が笑いになる。肯定が笑いになるということは、前提として否定が世の中に蔓延しているということだ。SNSを見れば誰でもわかるだろう。だからこそ肯定が笑いになる。そしてお笑いは更新され続ける。ということは肯定の笑いが古くなる時代が来る。それはつまり肯定が当たり前になっているということかもしれない。こう言っているとお笑いが予言であるような気がしてくる。

 最後に日本で最も歴史のある笑い、落語について、立川談志はこう呼んでいる「業の肯定」と。

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