自分の美しさ

最果タヒの詩集「夜空は最高密度の青色だ」のあとがきにはこんな一節がある。

世界が美しく見えるのは、あなたが美しいからだ。

最果タヒの詩にはそこまで感銘を受けたことはないのだが、この一節だけが妙に胸に残った。とてもかっこいい言葉だ。

その言葉の前にはこう書いてある。

ふと見た景色や鳥のさえずりや、好きな歌、それらにふっと顔がほころぶ日があったなら、それはきっとあなたの中の何かが響いて、すべてを眩しく見せているんだろう。

こういう些細な感動を世界の美しさと捉えるところから、さらに一歩進んで、その美しさは自分を映しているのだと言える事はとてもかっこいいことだと思う。

この言葉を更に一歩進めた言葉が、カネコアヤノのアルバム「燦々」にはある。

「ぼくら花束みたいに寄り添って」にある言葉

感動している 些細なことで
間違ってないよと こちらへおいでと手招き
感動している君の眼の奥に今日も宇宙がある

最果タヒの言う、「美しいあなた」を見つめる人がいる。あなたという一人が世界を見つめていた あなたと世界 という一人の世界だったものが ふたりの宇宙 に広がっている。

「美しいあなた」と言うからには、そこにもそれを見る他者がいるが、あなたというのは不特定多数の誰かだ。しかしカネコアヤノの歌う君はそこにいる君だ。あなたと世界の対峙は漠然としたいつかのどこかだが、「君の眼の奥に今日も宇宙がある」という歌詞は今そう思っていて、こないだもそう思った、ということだ。それは個人の生々しい経験として描かれている。自分の経験として、美しさに出会っている。

世界を美しく見えたあなたは美しく、その眼の奥には宇宙が広がっていて、それを見て心動かされている人がいて、だからその人もまた美しく、その眼の奥には宇宙が広がっていて、それを見る人は感動していて、だからその人も美しく、その眼の奥には宇宙があって……

世界よりもっと広い言葉、宇宙という言葉で美しさへの気づきは広がっていく。そして確かなのは自分が見て聞いて触った世界だから、それは飽くまで自分の物語として自分の感じた美しさとしてそこにある。飽くまで経験としての確かな言葉として語られる「美しさ」「宇宙」。だからいい。

そして「燦々」の最後カネコアヤノは歌うのである。

屋根の色は自分で決める
美しいから ぼくらは

美しさを理由に掴み取る世界がそこにある。それらはすべて自分の経験として。

あまりに自分がなくても世界が存在するから、戸惑ってしまうけれど、世界は自分で選び取ってはじめて見えてくるものの筈で、そういうつぶさな些細なものをひとつずつ丁寧に選び取って、世界と出会いたい。

でも世界なんて宇宙なんて漠然としていてわからない。君も、あなたも、ぼくらも、ひとりでは見つけられない美しさ。それらは語りかける言葉だからひとりではないのは当たり前だ。語りかける相手もなく、ひとりぼっちで潰れそうな時、世界の美しさなんて見つけられるだろうか。美しさを見つけられなかったら、自分が美しくないという裏返しに潰されてしまうのではないか。だからきっと、俺は美しいと言えてしまう強さが一番欲しいのかもしれない。最果タヒは最後にこう付け加えている。

世界が美しく見えるのは、あなたが美しいからだ。
そう、断言できる人間でいたい。

好きな歌を聞くことさえ億劫な日、何もできずうずくまっているような日に美しさになんて出会えない。たぶん。でも「ふと見た景色や鳥のさえずりや、好きな歌、それらにふっと顔がほころぶ日」があったことを思い出すことくらいはできる筈だ。そういう瞬間を忘れないようにしていたい。自分の経験として出会った美しさを。それはどんなに醜い自分の中にも美しさがある証明だ。美しさは見えにくくなっているだけで、そこでずっと生きている。だから自分は美しい。そう断言できたなら、救われるかもしれない。

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