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大阪あれこれ

<はじめに>
今の会社に入社したての頃、仕事以外でも週一でお茶をしながら恋話やお稽古、美術館巡りなどご一緒させていただいたのが、堺屋太一さんの姪御さんでした。堺屋先生には次回の大阪万博まで関西を盛り上げて行っていただきたかったです。そして、2011年当時にこんなことをブログに書いていたことを思い出しました。 お時間がございましたら、当時のことを思い出しながら、お読みくださいませ。


1935年7月13日、堺屋太一氏が大阪市住吉区に生まれました。
さて、皆さんご存知のように今、大阪府の橋下知事が「大阪都構想」をぶち上げ、大阪市と大阪府の合体により、新しく大阪都をつくろうとしています。大阪「都」、つまり大阪を都にする構想でもあります。

そのため橋下徹知事は、本来は来年2月まである知事の任期を、大阪市長の任期でもある今年9月で途中退任することで、市長選に立候補し、府知事選とのダブル選挙に持ち込み、ともに新市長、新知事とも大阪維新の会で固め、大阪「都」構想を推し進めようとしています。(知事選には、辛坊さんではなく元横浜市長の中田氏がでるようです)弁護士の橋下氏が、このような構想を立てることは決してできないわけで、その構想のブレーンとなっているのが、元通産官僚で、評論家の堺屋太一氏(住吉高校―東大―通産官僚)なのです。

橋下大阪府政で、経済ブレーンとなっているのが堺屋太一氏ですが、氏が、本日はこの大阪都構想を考え出したきっかけとなった「大阪遷都計画」についてお話したいと思います。ちょうど、数日前に大阪では知事、大阪市長がW選挙をすると発表しましたね。

 今から140年ほど前の1868年、江戸幕府が薩長連合の前に戊辰戦争などで敗れる直前のお話です。明治維新前年の1867年将軍徳川慶喜が大政奉還(政治を幕府から朝廷に返す)を宣言し、いよいよ近代日本の新政府が樹立されることになりました。


大久保利通(薩摩藩出身で、後に維新3傑の1人といわれました)は、1868年2月16日天皇に対して、新政府京都から大阪への遷都をおこなうべく天皇に「大阪遷都建白議書」を提出しました。
「これまでの天皇は京都にいて公家達のための各種宗教的行事を行っていたが、新しい日本の絶対君主としての天皇は、公家や武士のためではなく、人民のためのをつくらなければいけない。そのためには都は、京都ではなく、商人の町大阪につくるべきだ」と大久保利通は考え、都を大阪に遷都すべきと天皇に進言したのでした。当時天皇は17歳、大久保利通38歳の時で、まだ若かった天皇は維新の功労者に意見に耳を傾けました。


 また大久保は、同じ薩摩藩の部下であった五代友厚に命じ、新政府での新しい紙幣の製造のために、新首都の予定の大阪に、新紙幣を作る造幣局をつくうよう指示しました。この造幣局は完成までに3年の月日を要し1971年に完成し、初代初代大阪造幣局長には五代友厚が就任しました。(大阪造幣局は首都にある必要があると考えた大久保は、他の場所にはつくらせず、その結果現在にいたっても造幣局は大阪にしかありません)
 

一方、天皇は1868年4月13日、新政府の新首都大阪に向かうべく、お供のもの1655人を引き連れ、京都を出発し、本願寺津村別院(現在の北南御堂)で、6週間あまり滞在されました。本来なら、ここで天皇の住居である京都御所のような新しい御座所を新築してしまえば、大阪はそのまま日本の首都になっていたかもしれません。
 しかし、この時、急激な変化を嫌う京都の公家達が遷都反対と騒ぎ出したのです。あまりに激しい遷都反対の大合唱がおこったため、6週間の滞在後、5月末にはやむなく天皇は京都にお戻りになってしまいました。
 

そして、その天皇の大阪滞在中のある重大な出来事が起こりました。当時は戊辰戦争をはじめ、まだまだ官軍(薩長連合軍)と幕府軍との戦争が続いておりましたが、天皇の大阪滞在中の5月13日、江戸での戦い江戸城を総攻撃した官軍に対して、幕府は戦わずして江戸城を引き渡したのでした(江戸城無血開城)
 

丁度のその頃、前島密(後に逓信大臣や早稲田大学第2代目校長)が、匿名(江戸寒士前島某)で大久保邸に「江戸遷都建白書」を投げ込み、①人口の増えた江戸の経済規模を維持する②蝦夷開発の拠点として江戸は必要③政府・教育機関の建設に大名屋敷の跡地が利用できる、として江戸を新首都とするよう提案したのでした。

 これに納得した大久保をはじめ新政府首脳は同年6月30日江戸府を設置、同年9月3日には江戸を東京と改称しました。東京とは東の京との意味です。
 1868年10月23日正式に、明治維新が成立し、同年11月4日には明治天皇が京都を出て、3300人のお供とともに新首都東京に向かって出発されたのでした。
 

しかし、このときも京都の公家達は大反対し、ここでもやむなく天皇は、東京に3ケ月滞在した後に京都に戻られたのでした。それから4ケ月後、再度東京に出発されることになりましたが、このときも京都の公家達の反対運動はものすごかったそうです。
 結局、その公家達の猛反対を抑えるために有力公家であった三条実美(さんじょうさねあつ)は、「天皇は東京にいかれたのではなく、少し行幸でいかれただけでいづれ京都に戻ってこられる」といって説得したそうです。(しかし240年たっても京都にお戻りになる気配はありません。現在でも京都の老人達には「天皇はんは東京に行幸にいってるだけ」と主張する老人もいます)

 一方、大阪造幣局長になった五代友厚は、すっかり大阪が気に入り、大久保の再三にわたり東京にくるようにとの説得にも耳を傾けず、大阪に定住し、1878年大阪証券取引所、同年大阪商工会議所を設立し初代会頭に就任しました。

 さらには1879年には新しい大阪商人を育成するための教育機関、大阪商業講習所(大阪市立大学の前身)を設立し、1881年には大阪青銅会社(現在の住友金属)、1884年大阪商船(現在の大阪商船三井船舶)の設立、同じく1884年大阪堺鉄道(現在の南海電車)等、次々と学校や会社を設立し、大阪の恩人といわれました。
 

五代は最後まで大阪遷都を主張しましたが、それはかなわず、大阪の産業振興に多大な貢献を し、1885年本籍地を鹿児島より大阪に移した9月20日の5日後、持病の糖尿病が悪し亡くなりました。享年50歳でした。大阪をこよなく愛した五代友厚は遺言で大阪阿倍野墓地に眠っています。北浜の大阪証券取引所や大阪商工会議所にいきますと、五代友厚の銅像があります。

 堺屋太一氏の「大阪都構想」が単なる思い付きではないことをご理解いただけましたでしょうか。これからの大阪の発展と未来はそこで暮らす人たちの判断が大きく左右すると思います。
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