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KOJIKI<まほろば②>

さて、崇神天皇は意富多多泥古(おおたたねこ)を神主として三輪山で盛大な祭事を行い、神々を奉り祈ったところ、「天下が安らぎ栄えるだろう」との言葉通りに伝染病も収まり国が栄えました。

 崇神天皇はこの時期まだ大和から東の方の支配が盤石ではなかったことから、まず北陸・東海・丹波方面に軍勢を派遣し、確実に勢力下に置こうとしていたようです。9代開化天皇の御子の日子坐王(ひこいますのみこ)、つまり崇神天皇にとっては母違いの弟ですが、丹波(古くは丹後や但馬を含む)に派遣され丹波国王の玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)を討ちました。

 日子坐王(ひこいますのみこ)は四道将軍の一人として、そして称号としての「王」が初めて使われ、天皇に準ずる存在として扱われていルため墓地は宮内庁が管理しているそうです。

 北陸の方には大毘比古という崇神天皇のおじさん(8代天皇の子)に協力をしてもらいました。ちょうど、山代(やましろ)の幣羅坂(へらさか)(京都奈良府県境付近)で、腰に裳をつけた衣装をきた少女が歌っていました。

ねぇ、ねぇ、御間城入彦(みまきいりびこ)はねぇ、

御間城入彦(みまきいりびこ)はねぇ、

命を狙って殺そうとする人がいて、後ろの戸口からこっそりとなんだけど、

前の戸口からもこっそりとね、覗いているのも知らないで、

御間城入彦(みまきいりびこ)はねぇ、・・・

と歌っているのが聞こえるのです。御間城入彦(みまきいりびこ)とは崇神天皇の幼名です。大毘比古は なに?なんか変だぞと怪しんで、その歌をうたっている少女に「どういう意味だ?」と尋ねました。

「えー。ただ、歌っているだけ・・・。」と消えてしまったのです。

「ちょっと、心配だな・・・」崇神天皇の危機を知らせる内容であったため、この歌は反乱ではないかと気づき、急いで大和に引き返します。

「伯父上、あなたの異母弟の建波邇安王(たけはにやすのみこ)が山城国にいます。きっと、伯父上が北陸に行ってしまうと大和が手薄になるので、邪心を抱き、大和を攻めようとしたのかもしれません。」と崇神天皇の言葉に従い反乱軍討伐(とうばつ)のために、改めて態勢(たいせい)を整えることになりました。

 建波邇安王軍は、山代の和訶羅河(わからかわ)(木津川)で待ち構えていましたが、建波邇安王は、大毘古命軍に新たに加わった日子国夫玖命(ひこくにぶくのみこと)(和邇臣(わにのおみ)の祖)の放った最初の矢で、あっけなく射落とされてしまいます。態勢を整えたことで功を奏したようです。

 この時に討たれた建波邇安王の霊を鎮めるために建てられたという祝園神社(方そのじんじゃ)があり、毎年一月にその霊をなぐさめるため、いごもり祭りが行われます。

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こちらは精華町のHPからです。

ところで、崇神天皇は、奈良県桜井市三輪に鎮座されています。168歳の恒例で没しられています。十一月十四日には、御祭神の聖徳を称え「崇神天皇奉讃祭」が斎行され、神楽「磯城(しき)の舞」が特別に奉奏されます。

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今回のトップで使った木漏れ日の写真は昨年末に、大神大社へお参りした際に天皇社の方向の光を捉えたものです。崇神天皇は、天照大御神を初めて皇居から倭笠縫邑(現在の檜原神社)に遷され、丁寧にお祀りされると共にはじめて神社の制度を整えられましたお方です。悠久の時を超えて、今もその制度が守られていることは日本の無形の文化だと感じる次第です。


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