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物差し、満足、見通しの3題そろって革命っす

自分の物差しを持つってことは、何にどこまで資源を費やすと釣り合うのか、等価交換の法則がしっかりあるってことだと思うっす。製造業がつぶれかけて、乗っかって安心なものがなくなって物差しに敏感にならざるを得なくなった人も増えてないかとか。等価交換を肝に銘じると、人からただ与えられるものはないって分かるっす。日本人の75%が生活に満足していて、ちょびっと、将来に備えて、投資する余裕があるってことっす。将来はともかく、当座の心配(変化)はないのなら、ワクワクする変化、に自ら足を突っ込んでみたい気持ちはある(か)。大やけどしても怖いから、どこまで脅威の確率があるのか、先の見通しを信頼感をもって提供できれば、乗っかる人は多いんでないのか。しがらみのない中で(終わりなき日常で)育った若い子は、あえてトラブル(変化)の可能性に足を突っ込む、仕組みを作る側になる土壌はあるのではないかとか。情熱があったとして、先の見えないドキドキでなく安心感があれば、隠れ賛同者も出てくるんじゃねぽく。世の中が変わってくるということもあるのではないのかと、生駒市の市民とか熊本県の農地賃貸の事例とかで思うわけです。


前回、妻がぶつぶつ言う書きましたが、実は元ネタは女の子は不満がたまらないとぶつぶつ言わないし、であります。不満言い出したら要注意、絶対言うこと聞いていないといけないつか。女の子の察してくれビームで爆発する前に口に出させて、「交渉」する習慣を付けるように仕向けるか、

希望を言っても関係が壊れない信頼を醸成するつか。男の側も求められるもんであります。等価交換の法則って、漫画作中では成り立たない、リアルでも成り立たない場面はある。等価交換が成り立っていないのを探す、小さな労力で大きな利益になっているものを探すが人生だとは思いますが、何と何が交換に値するのかの相場観が自分の物差しだとも思ってます。

「物差しがある」と交渉ごとに乗りやすいっす。差し出せるものの相場があって、無理と思ったらスパッと諦めとか、アイス買って機嫌を取るとか掛け金積んで要求通すとか、次の判断がしやすい。現実はそんなにひどいが前提で不満を言わなければ、周囲の人との関係悪化が避けられます。また、人の言うことに右往左往しないっす。自分の差し出せるのはこれだけっす。でも日本人(つうか内田のたっつんつか野党つか)、交渉事苦手で、俺の言うことを聞け、なぜ聞かないが多い気がします。他人だからですが他人を分かってない。

でも最近、物差しを意識する機会が多くなっている気がします。他人に倣えをしていても望みは叶わないからっす。それなら、自分は何を差し出して何を得るのか、「考える」ことが、物差しが必要になるので。我が家はシンカリオンついでに後番組の阿川佐和子のトーク番組を付けっぱにすることも多いっす。

阿川さん、ひどい人にどう対応するかって結構気にしてらっしゃるようです。ひどい人はひどい人でしょうがないっす。自分にできることに限りがあり、できる範囲でなら引き受けるが、引き受けられないとピシャッと断る、自分を悪人だという自覚を持つことっす?羽河は自分をクズだと思っています。物差しを持つってことは限界(無力)を受け入れることです。どうあっても叶わないものがあると思い知り、諦めて、でももしかしたら無駄な努力をすることかもで。その過程で代わりに色んなものに拾われて奇跡を感じることっす。

全ての人にサインができるわけない。それはサインを求める人もわかって、どうしたらサインする気になるのか、相手に負担だけでなく利益を与えるにはどうしたらいいのか知恵を絞る真剣勝負の自覚です。

製造業がつぶれかけて、上の言うことを聞けばいい生活はできなく(一方的に言い募る権力性がなくなって)、ルールというか等価交換の法則(物差し)に敏感になる土壌はあると思うっす。世の中、何かを与えずにもらえるものはないって等価交換が分かっている人は、交換のルールに熟知し、自分の負担の少ないところで相手にとっての利益を考えて動かして、自分の利益もとるだろーなとは。

まあ、ひどい人だからサインしないというわけでもなく、自分の余裕でしないこともない(自分の側にボールがある)(相手からしたら等価交換の外、奇跡であるのっす)。ひどいことを求められたら断るつか、適正な願いには適正にと適当に関係を持つことっす。そういう関わりを持つと嵌められたりもするかもだけど、そういう時は自分の誤りを認めて出頭するしか道はないっす。で、先の見通せるかは大事です。ずるずるが一番いかんと(頭ではわかるつか、ニードルシングか、スティーブン・キングの。中二の時読んで印象残りまくり)。

この等価交換の法則を肝に銘じると、もしかしたらの甘い期待を捨られます。無駄と知りつつ努力は無駄なんです。いいことは起こるはずがなく、起こったらラッキーの奇跡で感謝であり、奇跡に対する感謝で気持ちよく生きれるっす。自分はクズなのになぜか悪いことばかりも起こらないっす。ラッキーは起こらない前提で行動するのが誠実に人生に対応すること?世間は冷たいのです。ラッキーは人生を変えない。でも心は温かくなる。ひどい現実を現実と認めること。状況をひっくり返すに愚痴を言わずに行動を起こす覚悟が決まるっす。

一方で甘い話につられないことです。秤が釣り合わない。余計なことに首を突っ込まない。

私は山っ気のある人も好きですし、好奇心とどこが違うのか、結果論として分かれるが入り口は同じと言いたいが、確率を(他人の言うことを鵜呑みにして)甘く見積もるかってあると思うんすよね。微妙な違いだけど、どこまで等価交換が釣り合うのか、秤の傾き、それはないやろって、人生に期待しないか。一発逆転の色が強くなると怪しいと警報が鳴るか。

そんなおいしい話、他人に知られてないはずがないという警報を鳴らせるかどうか。他人に対する信頼があるかっす。でも一方で等価交換の裏をかくのに、法則の大きな抜け穴を突けない、大きな勝ちは望めないということでもあります。既知の中での、先の見通しがある中での勝負です。まあ日本、それで食ってけるしな、たぶん。猫先輩のKKPM出版す。一歩間違うと貧困から抜け出せなくなるので危険なんですが。


自分の物差しを持つのは自分なりの等価交換に自覚的になることだと思います。ただ与えられるものは裏に何かある。一方的に与えられるものはない。

とすると、自分でコストを払わないといいものは手に入らない。行政に文句言うだけではいかんのが分かるか?

ところで、満足するって考えてるっす。日本人の満足の割合、内閣府調査で75%っすか?

余裕ができてから、分け与えることができるつか。財政破綻、言われ続けて、地震もちびまる子ちゃんの漫画で子供の時から言われているオオカミ少年気味で、いつだって不安のなくなる時はなく、1か月後の金策に全力投球することもない緩やかな見通し。親の介護で破綻は見えつつ、目前でなし?

仕事をするってことは課題があるから問題をひとつづつ潰していくことに他ならない。心配事がなくなることはない。余裕ができると、目の前のことだけでなく、まだ見ぬ可能性への投資もできる。将来の利益のために、多少のリスクをとって損を被ってもさばける余裕がある。

というのと、緩慢な変化のなさ(絶望)の中、ドキドキはしたくなくてもワクワクはしたい。あったかい気持ちになれる。先の見えなさにドキドキはしたくないけどワクワクした未来に手を伸ばしたい。結果の確かなワクワクに課金するつか。

橘玲が、「(日本人)」という本ででワンルームマンションは実は珍しく、普通は部屋をシェアする。80年代からワンルームが存在したのは日本だけっぽいようなことを書いていた気がする。人間関係のしがらみはあって当然だったから切れた関係が望ましかった過去と、80年代生まれの僕はシェアハウスで人間関係にもまれてみたいっす。最初の前提が孤独っす。しがらみが欲しいロードス島伝説の竜っす。(竜ほど自由に飽きる一面があります)

面倒なことも引き受けたいっす。その意味で、生駒市の事例とか
https://diamond.jp/articles/-/190601
熊本県が農地を借入できている
https://www.sankei.com/region/news/150326/rgn1503260044-n1.html
とか、どうやって最初の一歩を踏み出したのか。

一人の情熱から始まるっぽい気もするが、仕組みを作る人も出やすいし、乗っかる者も得やすい環境にあるのではないか。日本では(?)ワクワクを提供できれば。どこまで先の見通しに信頼感が醸し出せるか勝負のような気がするっす。実は日本、世界の最先端行ってるんじゃねとも思ってる話でした。安心感を提供する信頼を提供できるシステムってどう作るんしょ?年配者のバックアップとか?どういう保証のつけ方?え、首長にならんと無理?てか本当にうまく行ってるのか伝聞恐しだけど。

まあ、顔の見えない人同士の信頼感(市民感覚)は失われたら再建するの大変だけど、なくなっちゃったらしょうがないので、身近な集団から信頼を醸成するしかないっつー記事も書いているのすが。その集団が他を害することでアイデンティティを作っていかないように、どう選別されていくのか。という点でまだ日本はマフィアの共感が薄いつか、世間に対する信頼が、政府に対する信頼がある利点つか。

米、仏を見ていると革命権かとか他国人は頭をよぎるのですけど、やっぱり政府に対する信頼が壊れたら、補強するのが大変っす。錦が使えるうちに何とかすんのか、別の権威を打ち立てるのかの権力の予期理論?読んでないっす?政府セクターおいしいよ、やる気のある子いねーかい?サビ残まみれで当の国民からは石投げられるけど。いいんだ国民愛してるからの自己満足で、サビ残もうちょい何とかしたら、食いつく層も増えそうな気もするんだけど?

殺先生の赤羽君が官僚なったこととか、まだなんか残るものはあるような?第5の権威、育つ仕組みづくりの手助けに、まだ必要とされるとしたら悲しいものはあるけど、望むは父殺しか、一時の共闘をさせたいと思うだけの信頼積むのかにゃ?(うーん、信頼作りのための信頼って何つかやっぱり一歩は自分である程度の形つか、野党支持者、共感得てるのか。次の首相だれさ?色々と他国に倣う時間との勝負か)

まあ僕は、簡単な作業でもいっしょにすれば、人と人は為人を知ることとなり、偏見の余地は少なくなるのではッて書いたっすが、楽しいのと同時に、ケツ持ちに対する信頼が大事っすよね(?)

(追記)2013年の内閣府のアンケートで犯罪更生者の力になりたいと思っているの6割、でも、実際にうごいてみようと「思う」人2割で、どうなるか分からないことがストップかけているんでないかという新聞記事を見た覚えがあるっすが。5年もたっているので割合が増えているか減っているかですが、いいことをしたいとぼんやり思う人は多いんで中の最初の一歩をどうするかっすかね。


いや、これあと一回添削を入れなきゃで寝かしてたんです。悪人と思うこと、(無力だ)と思うことって、うまく文章の中で位置づけされてないんで、もうちょい削るか。でも、今朝のfinalventさんのツイートで、ティリヒで悪人や無とかが云々、ああ、その理屈、僕なりに詰められるって、この記事を全く壊して一から作るにも愛着があったので、そのまま投稿することにしました。次回には理想的なキモ面について、それはいいとして、でも、犯罪すると周りからやっぱりと言われる、それって実は悪を期待されている人生はどうなのというのを考えていたんすが、うーん、どっち書こう?

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