追悼 橋本治

生活に追われる人生の落後者でも、楽しめるものは見つけれるっす。人から笑われても、気にせず浸れる世界を作ることっす。それが、自分の人生を生きることであり、自分の軸(考え)、判断を持つことであり、個人であることだと思うっす。燦然と輝く夢を失っても、まったりする部分を持つ一方で、自分の楽しめる部分を通すために世間とどう関係を持って行くのか、「’89」で治やんから受け継いだ僕のテーマであります。


妖奇士(あやかしあやし)という、15年前のアニメがあります。どこぞの監督が中年の危機の時に作ったとかいう噂でした。うん、アラフォー新米?が見て、グサッと来るなー

江戸時代、吉原から落ちこぼれた場所で(もう年の)遊女が花魁になりたいと言い、隣の部屋には病気で死んだ遊女の死体がある。そこに来た元客の同心のおっさんが、一緒に暮らそうって言ってくれるが、喜ぶ自分の心が許せないと刃を自分で自分に向ける。アンハッピーなオチの気持ちもわかる。

いや、36を過ぎると会社の中での位置も見えてくる。夢見たところへ行けず、でも、結婚でもできれば上等としたものでしょうか。
生活に追われる、それを良しとするのか、その葛藤っつーか。

夢を見ることを捨てて、何をよすがに生きればいいのか。

で、ペトロニウスさんがツイートしていた自分の軸をもって生きること、他人の評価に一喜一憂しない習慣を身に着けると人格が安定する、と人間関係も安定するっぽいのです。

おいら、仕事はできないっ子ちゃんです。でも、朝、ごにょごにょ書く習慣がある。次に書くネタがある。変わりゆく状況の中、変わらないものがあるってことは、(すがるものがあるって)芯があるってことになるのか。

と、ぐちゃぐちゃ書く自分ですが、実は造語の類はしたことがない。造語できるほどの発想がないといえばそーだ。でも、造語っちまうと、自分で自分で酔う、自家中毒つかなんか不健全な感じがして嫌だったんす。開かれていたいっつーか。

(ついでに、僕が書くとき、文章と文章の間が白っぽいような、論理が飛んでいるような気がして、そこの糸を手繰っていくとずーるずーるなんか出てくるっポイの(電波系です)つか、言葉に対してある種の感覚があって、その言葉の感覚の持ちようが人と違うからこその変な発想であるような???いいけど。)

人と意思伝達をするための(人に理解できる?)言葉の枠を外さない自分つか、関係をつなぐことを望んでいるのか。でも、言葉にするってことは、今の状態の記述とは別に、今の状態でないことを考えているってのも、含まれている。現実と遊離したあるべき姿を描いてその落差は不満に転嫁しないのか。って、望みがすべて叶うことじゃないっつーのは、大人になると分かるし、仲良くなれる、仲良くなれないは望めないことっす。一部望みが叶わなくても、生活の場があり、他で関係をつなぐことができてる部分があれば特に特異な部分での承認は望まないってことっす。

特異な(自分だけの)部分まで他人に承認を求めて右往左往したくない。僕は自分の価値観も他人の価値観も大事派と日和ってっています。文脈飛ぶとは思うが、他人から与えられる経験があれば、多少は他人に不愉快を押し付けられてもしょうがないか。

「あの娘と、遅刻と、勉強と」という本で岡村靖幸と荒俣宏が対談して、荒俣が「死ぬときに振り替える自分の人生は7勝8敗でいいと思うのね。ちょっと負け越したくらい。2勝13敗だと嫌だけど(笑)。7勝8敗ぐらいが一番いい人生なんじゃないか。」

負けることを当然とする、と思っておけば、自分が世間に受けれられない部分があるのは当然である。つか、小学生の時転校していじめられているので、世間が自分に対していじめてこないだけ(2勝13敗)ましつか良しとしたもんだ。自分の中に言葉があっても、受け入れられないのはまあ良しである。

「私にとって重要なのは、家の外に作り上げた人間関係です。それが突然崩壊してしまった時の喪失感は言いようがありません。それまで「一緒だ」と思っていた人間達が、ある日突然、一斉に違う方向を向いて自分一人が取り残されてしまうという経験を、私は二十歳までの間に二度経験しました。」
http://www.webchikuma.jp/articles/-/495

生活の場があれば7勝8敗にも思えるつか。橋本治も人間関係否定派ではない。というか「’89」という本で宮崎勤でオタクバッシングの時、オタクの漫画だらけの部屋で水着を着て、他人から贈られた花束が部屋にあることを誇っていたというか。

「私は、この若い人間による「人を殺してみたい」を、人間関係の希薄さによるものだと思う。他人との濃厚あるいは密接な関係の持ち方が分からないから、「殺す」という極端な関わり方に走ってしまう。(略)「呼べば応えてなんでもやってくれるAI」に慣れてしまえば―そういう育ち方をすれば、「言ってもなにもしてくれない!」という不満を他人に対して持つ人間も出て来るだろう。そのてのわがまま人間は、AI以前にもういくらでもいるが、AIが普及するとその内に、「あのね、人間は機械じゃないからね、ただ命令しても言うことなんか聞いてくれないの」という教育をしなけりゃならなくなるのかもしれない。」
www.webchikuma.jp/articles/-/1181

「どうしてみんな気がつかないんだろう、この世には”個人”というものを認める、”個人”というものが肉体をもって関係を持って現実の中にいるかなりシチメンドクサイものだという思想がまだ存在しないのだということを。一方的に語ったつもりになっている”表情”なんていう曖昧なものを拾い上げる”主君”なんてものがもういないだということ!」「江戸にフランス革命を!」(橋本治)

私が他人に期待しない言葉を持つ一方で、その言葉を全く他人を拒絶するものとしていない?治やんは「宗教なんてこわくない」で、自分で考えたら孤独になるのは当然だけど、そんなもんでしょ、とか。また、岸田秀を引用して、他人が生きづらいようなら自分が言葉を用意して生きやすい世にしていこうっぽいのも書いていたと思う。言葉を孤独だけども人をアップデートする道として考えていたような気もする。他人に全く期待しないと自家中毒するわけではなく。

人から見て気持ち悪いように見られる(オタク)趣味でも、気持ちの悪さを感じさせないようにどうやって世間に提出するか。いじめられたら楽しみ成分が減ってしまう。笑われる程度でやること邪魔されないようにするには。だし、「もしかしたら」自分の楽しさを世に広めたい関係性を持っておくとは?自家中毒を起こしていたら醜いのは感じられるだろう。他人に理解を期待しないが、理解される準備はして、趣味は誇りに思う。後ろ暗いものではないという価値の創出をさぼったら気持ち悪い。

僕の営業魂云々もそうだし、何と何を引き換えに他人に何を望むのか、語る(命令)するだけじゃなく関係を築いていくってどういうことかってのが「’89」から考えている僕のテーマの一つであります。なぜ理解しないってぼやくのは違うと思うんすよね。そりゃ他人だからっす。他人を尊重して、それでも気持ちを動かすにはって考えた方が健全なよーな。(しかし、何か他人を動かそうとする自分の権力性っぽいものをあくまで無効化しようとした橋本と、そこまで文章作るの飽きたの自分とでは澱みに対する感度の差っつーか、書く人と実行する人は別というか、責任を重く見るが上での忌避てか真似できなかった)

なお、「江戸に~」はちょうど1989年に出た本で、「’89」と対になると言ってもいいだろう(か?)。橋本治が評論も小説を書くための修行の手段だと言ったとして、「個人」ならない人に対して憤りを持った時期がなかったとは言えないと思うのよね。それだけの熱量あるでしょってだけですが。岡田斗司夫氏が「全盛期の橋本治」と言っていたような「江戸に~」はなんか、また面白いっす。睡眠時間削って読んでしまった。農民で作家になったのは「徳川家康」の山岡荘八だけ。貧乏が思想の必要条件でないとか。成田闘争の時、農地がとられるというのに全国の農民が同調して決起しなかったのはなぜかとか。(いや、浮世絵の話が多いんだけど抜出が難しい)


とくさんのツイート「それは村上春樹自身が語っているように、一つには日本の「土着性」との戦いだったんだろうと思う。同質的で、他者の自由にも食い込んでくる、我々の底流に流れるもの。この「土着性」こそ日本の「大衆の原像」だとして、そこに拘った作品で成功したのが幻冬舎だと前から思っていた。」

「自己の内部を深く降ると物語の泉があり、その泉は他者とどこかで繋がっている。村上春樹が全ての作品で追いかけてきたこの課題は、インターネットのメタファーにもなっているし、現代性は保たれている。見城氏のような、強烈な自我で他者を飲み込もうとする存在との対決はよく描かれてきた。」

「だって米津玄師の「Lemon」はYoutubeで2.9億回再生ですからね。人気ドラマとのタイアップあったとはいえ、これだけ内面的で祈りのような音楽が大きな支持を得ていることの意味は深い。そして、これはツイッター経由でお会いする20代の方達への私の信頼と繋がる感覚です。みな自分の言葉を持っている。」

時代の変わり目に人は死ぬとは橋本の弁だが、平成の次は自分の(他者との違いを顕す)言葉(軸)を持つ子がぎょーさん、当然になるのだろうか。製造業的な部分が死ぬんでみんな一緒で幸せが保証されなくなると、自分で(他人と違う)望みを考えて人生設計しないといけないのか。橋本治が言うところの自分で考える人が増えて、橋本は過去の人になるのか、(それを望んでいるような気もするが)。

僕、80年代生まれ、欲しいものはない(ま、あのダウンの色よいなーというのはあるけど、なくてもよし)。夢見るものはなくなっても、自分の中で大切なものはある。それは何と引き換えにして、どの程度の犠牲と引き換えにできるのか(どうやって時間を作るのか)。交換の基準がある、自分軸がある個人にはなれたのかなれていないのか。生活にも追われるけど、他人にとっては小さな大事なものを守るための試行錯誤(ってもちろん家族も大事ですが)に必死で、(大きな犠牲を伴うこともある)大きな夢にすがらずとも生きていけるっす。落伍した人生でも楽しめるものを見つけてるんだと思うっす、たぶん。

似ていないにしろ僕の考え方の型は橋本治のものです。橋本は自分の時間の素を作ってくれたっす。ありがとうって伝えたかった気持ちはあって、もっとしっかりした考えを持ってからと思ってたらタイムアウトになっちゃって、(と書いて泣いている)。ガンになってから?原稿用紙たくさん買ったって、書きたかったって。橋本治が書きたかった世界を自分が書けると思うのは無理っす。だけど、何か書きたいという気持ちは継いでいきたいと思います。わざわざ書くのは、当然の顔しているものをなぜだか変に思って、おさまりのいいところに置きなおすと、きれいに部屋片付いた時の気持ちよさだからです。書くことだけが繋がりです。って何言ってんだかですけど、今までどうもありがとうございました。

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