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理想に近づく快感(読書試行錯誤編)

本を読むのはなぜか?自分の知らなかった考えを知るのは楽しいからだ。エッセイが好きだ。人と違うことを書かないと商売にならない。ほぼ変わらない(日本人として同じ生活を、同じ題材で)その人の妄想力が試される。で、ものが書かれたときの判断で、何が書かれていなかったのか、何がわざと書かれなかったのか、妄想するのは楽しい。私の妄想力と勝負☆ただ、自分の妄想力には限界があり、書かれていなかったことは他の人の本で書かれていることもある。見つけようと思って見つけられるものでなく、数をこなすことでしか見えない世界はある。数をこなすつか、捨てられる情報はない。情報と情報の新しい組み合わせを考えるのは誰にもできない(してるだろうけど世間が狭くて分からない)、いや、自分着想持ちなんだよねーで、なんちゃってで新しい世界を作る、ここではないどこか、に思いをはせるのはワクワクする。それはもしかしたら、真理(理想)に近づけた、と作った一瞬だけは思える自己満足は愛おしい。

「姉・米原万里」(井上ユリ著)を読んだ。飛ばし読み。ちょっと相性が悪かった。その人の書くテーマが私の関心と重ならなかっただけで本が悪いわけではない。真里殿がアトピーだったことを知っても、何となーく嬉しくなかった。

家族から見て「偉人がただの人」であるのは、取らなかった選択肢が見えないからだ。ある行動の裏の根拠が見えていない。この本はほとんど書かれていない。のは、わざと、生活者真里殿の描写を中心に据えたんだろう。私はそこまで真里殿で盛り上がれるファンでなかったので飛ばし読みだが、ただ、家族にとって大切な真里殿の記憶は生活する姿だったのだろう(か)。というか、ちょっとほら吹きが入っていた真里殿の事実をばらすのは(書かれているにしろ)真里殿の舞台裏を明かすのに、情けをかけたかなという感じもする。

人の判断というのは面白い。何を見て、何を無視ったのか。私が想像しても、ぜーたいに、その斜め上を行くからだ。「無限の住人」の人なんて、(多分)ちゃんとした社会人生活を送っている気もするが、ぜーたいおかしい(褒めている)。自身の内面を表現者として顕せられなかった場合、どうなっていたかちょっと関心がある。表現者として生きるほかない人というのが極北に居て、私なんかは書くのは好きだが、(休みがあったように)書かなくても平気な人だったりするが、人はみんな、他人には理解されないけど(もしかしたら理解されたい)心にある澱(おり)はあるだろう。少し覗いてみたいスケベ心で、その差異は大好物である。

エッセイが好きだ。人と違うことを書かないと商売にならない。ほぼ変わらない(日本人として同じ生活を、同じ題材で)その人の妄想力が試される。(楽しい)。

と余談だが、昔っから関心がある人がいる。何となく私と同じ傾向の考えのようで、なじむ。でも同じっぽいのであんまり技巧が分からず、何となーく追いかけている程度の。課金していない。と、でも年末、批評を読んだら、面白いか?その題材を私なりに解釈しなおしたら、やはりというか結論が違う。でもその人の視点を取り込んで、より精緻になったつか、その視点を私なりに料理するならば、と色々妄想してチョー楽しかった。

「ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた」(原田まりる)を読んで、おっ、自分の思想、かなりいいとこまで行ってるんじゃね、と思ったのはさておき、ヤスパースかー独りよがりかー私は独りよがりを悪く言わない。誰にも理解できないことであっても、私にとっては大切なこと(見える理屈)はあり、私が私自身である大切な理屈だからだ。つか、客観に合わせる面白くなさが延々と続いていたのに、最後の流行が他人の大切さにコケるのはおもろい。いや、私も愛の理屈(分断対策)なんかないかボーと考えるの楽しんでいるんだけど。

独りよがりを肯定する。でも、何か悩み事があったら人には相談する。私の優先順位つか判断つかそれが変わらなくても、でも、他人が私の考えていなかった視点を提供してくれることはままあるからだ。

というわけで、本が好きだ。本に書かれてない視点を考えるのは楽しい。そして、私が考えていたけど、見落とした点について指摘された(気になる)のも楽しい。そーきたか!アハハ。む、それじゃ、これはどうだ。(と言い合える友達はできんのかのう)。と、読む前は考えつかなかった理屈が新しくできたら、満足感でお腹いっぱいです。

自分の考えは自分だけで考えると穴がない。穴を見つけて新しく作り直す作業はやっぱり他人あってこそで、うーん、何か愛の理屈の基調に使えるのか。穴が発見出来たらなぜ楽しいのか。そこんとこ詰めないとか。真理に近づくからっす。決して届くことはないにしろ、その試行錯誤が楽しい。作った瞬間だけは、これが正しい!と思える。(3秒たったら穴を見つけてがっかりするけど)。試行錯誤で楽しめるものは人によって違うにしろ、それは、退屈しのぎ、死ぬまでの時間つぶしとして楽しいものだと思うのでっす。

自分が何にこだわりを持つのか、何の差異が気になるのか。いろいろ経験しないと分からないし。明日の飯の心配があるとそれどころではないだろう。でも、変わること、どうなるか分からない未知がストレスになる中、いつも変わらない追求の時間があることは気分転換で救いになることもあると思っている。図書館行って、新聞で無料イベント欄を見て、どこかに行ってみる、何か、顔を突っ込んだら犬も歩けば棒に当たる、と私は兄弟にスマホゲームだけでなく、休みに外に出てももらいたいんだけどね。ま、言わないけど。


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