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人を偏見(その人のしない事)で非難しないのなら、戦争責任はどうなる?


【追記あり】

フェミニズム、男性として自分はそんなこと考えていないのなら、そんなこと書いた本は全否定かというと、Twitterでお前のこと言ってない、例外があることはそうだとして一般に当てはまる事例に食いついたら迷惑顔されるこの事象とはなにか。

一人では不利益を被るのなら、集団になって利益を取りに行く。その時、集団と自分の意が違うは当然だが、集団を切り離しに行ける個人の内面があるとすると?やはり個人主義の歴史を辿らねばか。

とか、自分で選んでない集団なら同情心が湧くならやはり、「選択肢」がある個人の意味をどっかの本で探さねばだが、こーゆー時、すぐわかる友達がいる人は羨ましくは思うが、私の不徳の致すところです。反省してます。ふふふのふ。と、孤独をかこつSNSしてたら、読んだ子供におとーちゃんが好きだからと涙目になられてしまいました。すまん。



賢者は歴史に学び、愚者は経験からとも言われるが、自分の当てはまらないことで自分のカテゴリー批判されたらムカッとくる。このとき自分が中心で世界が回っている。が、人間の脳みそとして?自分はそうは思わないがそーゆー人も多かろう。そーゆー人に合わせた自分の対応、戸外でマスクつけるとかの差異。

ごく普通に天動説と地動説をより分けて自覚がないような気もして、これを分別できないかがネタとして考えてタンス。単に批判されるのなら、もとい非難か?、最もなことでないと悪く言われたくないわ?うーん東大生、生まれ持って奨学金やバイトして背負うものがない者はその非難を黙って聞くのか?

ノブレス・オブリージュが見えなく、大企業に入り、市井と接点がないので市井の方も苦労がわからないはあるし嫉妬は燃えるし。金持ちは目立ったことをすれば叩かれるかにゃ?目立たなく、気配を消す。利点があるから。そこは義務はない。分断がある。

僕の思考回路だと世の中交換である。引き換えのないものもある。ただ天から降ってくるものもあるが、他人がそれに乗っかるのは別に他人の生き様だが私としては帳尻を合わせねばの寄付だし?寄付を受け取る側に本来はいる、いつそこに行くかの覚悟はある?

交換のない関係は略奪しても心が傷まないヤバさはあるとして。その立場に生まれたことは非難となるか?ノホホンとされたらピキッとは来る。で、フェミニズム的に自分は当てはまらないことで非難されるか。まあ、自分の意図が誤解されて非難されるはよくある?それが当たり前で、皆に受け入れられる関係もなし。若いとつらそうか?

と、私も障害者雇用のつらさでぶちってるし?あるカテゴリーが悪く言われて許されない気持ちになるのと、反論が許されないことの差?まあ自分のカテゴリーで食ってけない事態が見えるとき、反論はしないとこの状況が続く。反論して返って殺されるのが見えると黙るか。その殺される空気は差別か。

橋本治いわく、今は蔑まれることでも自分の好きなことは堂々とここが素晴らしいと他人を説得していかないのはズル?そのズルは非難に値するか。まあ他人が説得される空気を作る、他人をよく知る過程、努力もなしに他人を恨むは?あれ、ズレた。

他人から非難されるが状態ででも自分は例外であるとき、自分の例外性を声たかだかにうたって、自分以外のカテゴリー者を見捨てるのかて、生き方もイヤンだな?まあ自分の苦しい生き方を引き受けているのなら、ズルをしている他人は許せなくもなるか?て、そこまで考えられていないよな?自分は自分、他人は他人。

そこにカテゴリーで見る目はなく、個人がある。橋本治の「'89」カテゴリーでぶん殴る性は所詮は関係ない他人でよく知らない他人だ。非難をするならその人が悪かったからと非難する、非難はそれだけの重さがあるし、気軽にだから××だからという軽薄さは、私はあまり使わないように気をつけているが、また他人にそれを強制できない。で、またカテゴリーでぶん殴られたら切れる。なんだ、主語が大きいことを言う場面はどないなものか。

が、自分も気を付けてるても、世間話で当事者がいないとき、顧客と一体感を作るために使うこともないわけでも。月イチの頻度でもないが。

と、全体の最適解を考えるとき、どうしてもカテゴリーで人を見なければならないはあり、ただ、市井にある私としては、そーゆー人を数としてしか見ない生き方からは多分漏れた。生涯1平社員です☆人を数として見なければならない役割の人はいて、一方で市井がその視点にたつは?

身近な人間関係だけで世界が回っていたが、大学に行くも奨学金がいらない世界がSNSで可視化された。苦悩のない人はいない。苦しみのない人はいない、その想像力が削がれるぐらい、私が欲しかったものを?当然のものとし有り難みがわからない人には反感かな?

(ここで3日経過)

人を非難するときは、その人のしたことで?カテゴリーで非難されるとムッとくる。自分はしないでおこう?でもそれがなんで広がらないかというと、知っている人しか、非難とか褒めたりしないのであれば知らない人との関係が作りにくい。つまり共同体より広がりのある社会ができないから。

知らない人を信頼するコストが跳ね上がる。のは新しいことをするときの保証金が跳ね上がり不活発な社会か。でもあるし、知らない人を助けるお作法なくして、助けてもらった記憶なくして社会の成立はないような気もする。

と横道にそれると、フェミニズムは私は男女問わず人からの押しつけを否定するのなら、自分のしたい、欲することをするというのなら、個人主義の理屈にもなるような気もし。だが、それは、戦争責任のような自分のしていないことの非難の否定だよね?

カテゴリーでの非難を受けるのは、カテゴリーで利益を得ているからか。男性東大生として非難を受けるは居心地が悪いが、非難を受ける、利益を得ている事実の裏腹のノブリスオブリージュ、義務を広く膾炙していなくも、革命の危険性がある。

てか、カテゴリーで褒めることなしに非難される自覚があるとは何だ?カテゴリー、人が非難してくるので身内で固まるユダヤ人なり華僑なのだろうか?非難されるから?やっかみ?

インドのアウトカースト、やってられないと思うメリットなしの場合も大アリで。てかインド、バラモンの数、多いとも聞き差別を温存するメリットが大勢にあるんやろな???本当に部落差別にメリットがなかったのか、何故長く続いたのかを研究して解体しておかないと、倫理的に否定するだけじゃ世代が変われば繰り返し的なのもあると思う。

と、新たな思考の鉱脈を発見したが、本を読んでいないのでどう組み立てて良いのやら。2、3年楽しませてもらいます?橋本治の「'89」を発展させるにはか。偏差値55の本じゃないよな?


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