これくらいで歌う第三十六章〜考える力〜

2013年記
 いまや小学生もスマートフォンを持つ時代。インターネットの持つ情報を
若年層でも手に入るようになった。一人の人間が思考を重ねたどり着いた答えを誰でも見ることができ、例えばトイレが詰まって大変なときに「トイレが詰まった」と検索すればその解決方法を何通りも得ることができる。僕はとても良いことだと思う。知識の共有は人を賢くさせるものだと思う。しかし、同時に「考える力」が著しく低下しているとも思った。トイレが詰まったときに自力で解決するよりネットでの答えを探すほうが圧倒的に早いし効率的だろう。しかし自力で解決したときに得ることのできる満足や自信、説得力や向上心はなくなり、やがて身の回りの「なぜ」に対して考えることもそもそも「なぜ」とも思わなくなるかもしれない。そういう人は増えているのではないか。考える力が低下して何に対しても無関心になりつつある人が増えているのではないか。大げさかもしれないが僕もそういう状態になりつつあり、焦っている。

 ニュースや友達のブログを呼んでもぼんやりとしか理解できず、読み終えてなんとなく面白かった記憶を辿り誰かにそれを伝えようとしてもうまく話せなかったりする。「何が、どこで、どうした」などのポイントを抑えたつもりでも実は覚えていなかったり全体を把握していなかったりしている。これはニュースや身の回りに限らず自分自身にも言える。自分と向き合うのは大変なことで、自分の嫌いなところ、反省点ばかり浮かんでおもわず目を逸らしたくなるものだと僕は就職活動の自己分析というので経験した。自分とは人にどう思われているのか、どう見られているのか。僕は商店街のカフェなどに入ったときにコーヒーを飲みながら外を歩く人を見ては妄想に耽る。この人は実はこうでこういう配偶者がいて趣味は...など。大体スーツを着ていれば外回り中のサラリーマン。平日の昼間に楽しそうにしているのは大学生。月曜日だと美容師かもしれない等ある程度簡単に考えることはできる。しかしスーツで髪の色を染めていて平日の昼間に商店街を闊歩している人を見ると思考は停止する。考えても難しくてわからないからだ。まさに金髪でよく分からない服を着て平日の昼間に歩く私は、そういった人の思考を停止させているかもしれない。

 しかし、自分自身と向き合い自分のことをよく知ることは僕が言わなくても生活の向上につながることは明白だ。誰かといてなにかが起こっている状況下で自分が言える事、自分がするべき行動などが見えやすいからだ。友達数人を集めて同じ事を言わせても意味は違う。単純に「バナナ」と言うだけでも面白く見える人、またはその状態を作り上げる人。「おい」というだけでその場を沈める人その空間を作り上げる人。自分を知ることでおのずと自分に合った言葉の発し方、空間の作り方が分かってくるかもしれない。

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