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母からLINEがきた。内容は姉の愚痴。

姉はいわゆる自然派寄りの人間だ。(特殊な仕事をしているのもあるだろうが)
世の中にはいろんな自然派な人がいるけど、うちの姉の場合、語弊を恐れずに言うと人に害を及ばさないタイプ。
人に対してああしろこうしろ言うわけでもなく、ひとりで丁寧な暮らしを楽しんでいる。
私は自然派には興味がないものの、そんな姉を嫌いではない。


母の愚痴は「〇〇(姉)は世間知らずだ。捻挫してしばらくたってから病院ではなく整体にいった。そこで数万円のチケットを買ったらしい」「私からは搾取(時々の物品仕送り?)しといてそんなことでお金使うなんて」とのことだった。

母の気持ちも分かる。が、姉は自分で稼いでるし、搾取と言われるほどの支援を受けているわけではないとも思う。

昔から母は姉に厳しかったように感じる。そして姉はそれに応えていた。例えば勉強面で言うと、中学時代は5位/300人とかでも「悔いのないようがんばりましょう」とコメントを通知表に書いていた。(ちなみにそんな期待されてない私には15位/250人で「努力しています、これからもがんばってください」)
県内でトップレベルの高校に行き、大学は府中市にある国立大に合格することができていた。期待に沿うように努力し続けた姉は本当にすごいと思う。


だから期待のハードルは私へのそれよりもずっと高く、今もなおそれが続いているんだなと感じてなんだか苦しくなった。自分への期待じゃないのに苦しくなるほどの「品行方正で常識がある人であってほしい」という期待。


でもそもそもそう思って苦しくなるのは、私自身も母へ期待のハードルを知らず知らずのうちにあげているからなんだろうなとも思う。いつでも寛容な母であってほしい、という期待のハードル。

芦田愛菜先輩がいつか言っていたらしい。「裏切られたというけれど、その人が裏切ったというわけではなく、その人の見えなかった部分が見えただけ。」と。

これは「信じることとは?」の質問に対してのアンサーのようだが、相手に対して期待のハードルをあげてそれを相手が乗り越えられない時にも通じるものなんじゃあないか?


先ほどの言葉の前後にはもう少し続きがある。
「 その人自身を信じているのではなく、自分が理想とするその人の人物像に期待してしまっていること。裏切られたというけれど、その人が裏切ったというわけではなく、その人の見えなかった部分が見えただけ。見えたとき『それもその人なんだ』と受け止められる揺るがない自分がいるというのが信じられるということ。」


相手に対して失望するのではなく、それもまた相手の見えなかった一面であると受け止められること。意識しなければ難しい。でも、ここで今気づけたから自分の意識を少しずつ変えていきたいなと思った出来事でした。

(それにしても芦田愛菜さんすごいよなあ…)


#芦田愛菜 #期待のハードル #期待

ただの備忘録です。