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59| 山のは

 如月。山と野みちを歩く。
海に面する、鎌倉と愛知県の幡豆にある野山。
いま私たちの住む都市街中にある東山丘陵地帯。そして、愛知県岡崎の額田地域。

2月11日 幡豆

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 以前、冬のクリスマスに、京都を訪れたことがあります。
滞在2日目、雪の降るなか、貴船神社や鞍馬寺を巡り、真っ白な鞍馬山一帯を、ひとり黙々と歩きました。
夕方、京都駅で賢さんと落ち合い、万歩計をみると、27,000にせまる歩数。
「ちょっと普通じゃない・・・。」
と、賢さんは絶句していましたが、本人も、その朝方には山道を歩くことになろうとは思っておらず。

 「結構歩いたなぁ〜!」と、位置確認の為に、ポケットからスマートフォンを取り出して漸く、すでに電波も届かない場所にいることにきづいたくらい。(賢さんには、「それ半ば遭難(呆)」と!)
真白な雪模様の山道がとにかく嬉しく、生き生き、背中を押されているかのように歩き続けていただけなのです。

 でもその後、あちこち出掛け歩いても、なかなか2万歩を大きく超えることはないので、やはり、その日はよく歩いたのだと思います。

2月14日 東山植物園

 茶の湯では、「自然」ということをとうとびます。
 四季おりおりの自然の美しさを茶に託し、一席に移して楽しむのですが、その中でも花は、よく季節を現わすもので、主人がいちばん心をつくしてととのえるものです。
 茶席の花は、利休が「花は野にあるようにー」といわれたように、花の持つ自然の姿でいけるのがよく、形を変えたり、作ったりする必要はありません。花と器が一つにまとまって、席中に季節感を現し、美しさを感じさせるものであり、茶花それ一つが、いけ花のように、とびぬけて目だった装飾的なあり方では、いけないのです。
 野にあるようにーというのは、自然の環境の中に咲いた花、という意味で、さらに野原に自然に咲いている花のように、すなおにいけるということです。 
(後略)

裏千家茶の湯 鈴木宗保・宗幹著 主婦の友社
茶花 野の花のように より
2月8日

 今月8日に、ひと月前に訪れたばかりの日本民藝館「生誕100年 柚木沙弥郎展」を再訪しました。

 古木 

 翌日、鎌倉を歩く道すがら、予定にはなかった鎌倉五山の建長寺に立ち寄ることとになり、半分「?」と思いながら足を進めると、古い大木がありました。

鎌倉建長寺の古木、ビャクシン 樹齢約750年とのこと。

 点在するいとが、むすぶことでほどける・・・。
 実はこの体験が、先に引用した「茶花」にも繋がっています。

 ひとつには、鶯神楽の木枝を用意した際、頂いた言葉。

“花は野にあるように”というんなら、野にある鶯神楽の木枝や全体のすがたをまず見ない知らないと、いけれないんじゃない?

まずは野山を歩きましょう。野山を歩いて、そこにある季々の花をみましょう。

もうひとつは、「なぜ茶室に花を置くのか?」という問い。
利休さんは、なぜ茶室に花を置いたのか。もしくは、なぜ、花は置かれたのか。

 “花は野にあるようにー”自然を第一の旨とする、ということなら、野山に咲く花をわざわざ切って持ち出すこともなく、または、庭に咲く花をそのまま、あるままに、茶室から眺めればよかったのでは?
植物の木枝や茎に鋏を入れ切りとる時点で、すでに自然に生えている状態から移行しているわけですから、なぜわざわざそのようなことを?
ーーーと。身も蓋もないことのようにも、思えますが…。

 一本の樹を描くとしよう。能う限り似せて描けば、よき絵と普通はいわれよう。忠実な描写は真をつたえるための、正しい道だと思えるからである。だが形や色をそのまま外から模してそれでよい絵になろうか。絵は進んで樹をもっと絵にする必要がある。樹の絵ではなく、絵の樹にせねばならぬ。樹とその絵とは異ならねばならぬ。描くとは樹をもっと樹にする意味である。いわば樹を絵に煮つめることである。だから樹を見る時より、絵でもっとよく樹を見せねばならぬ。かかる意味で写実に止まるのは絵に高まったものとはいえぬ。よき絵は樹を写さずしてしかも樹を示してくれる。自然の樹を見ても見えない樹さえ見せてくれる。かかる意味でよき絵には樹よりもっと樹らしい樹が潜む。私はかかる絵を工藝的な絵と呼ぼう。そう呼ぶ方が至当ではないか。

 なぜならこの時樹の絵は模様に煮つまってくるからである。すべての無駄が省け、なくてはならないものだけが残る。そこにはいつも不用なものへの省略があり、入用なものへの強調が伴う。これこそ模様の性質ではないか。それは写実を越えた真実である。この場合誇張は虚偽ではなく真実なものの表現である。よい模様は何らかの意味でよい誇張である。だからグロテスクの要素を帯びる。樹の絵が模様に入って始めて絵の樹に高まる。よき絵とよき模様とは一つに結ばる。

茶と美 柳宗悦 講談社学術文庫
工藝的絵画 三 より

 前述の問いを持ちながら、ブランチに訪れた東山珈琲店で、開いた文庫本にあった上記の箇所を読みながら、『茶花とは花をもっと花にする意味である』と、響きました。

 では、これをひとつの仮説として、「茶花が模様に入って始めて茶花に高まる。よき茶花とよき模様とは一つに結ばる。」と置いた場合に、『模様』の示唆するものはなんでしょうか。

 おそらく、この模様とは、感覚の内にあり、言葉に表現し難いものでもありますが、めったに褒めることのなかった柳宗悦さんが、褒めるときには「これは感じがあるね」と、言われたとか。

 わたしなど、「お茶のある方だね」などと言われることナゾありましたら、至上のよろこびにひっくり返るデショウ・・・が、その言葉、三次元言語・空間では指し示すものの其々異なる『模様』『感じ』『お茶(もしくは)ある』が共通して含蓄する、もしくは、言葉として違う側面をみせ、点在する3つの含まれ顕れたる源、本源、ひとつである一なること…。

 実存する十分に複雑な形象を、シンプルで鋭く過不足のない形としてとらえることは、柚木の型染めの仕事の基盤である。形象のもつ多面性、複合性、その場に溶けこんで現実の一部分になっている状態から、一挙にその形象の本源をその生き生きとした生命力とともに型に切り取る。このもっとも創造的な仕事の瞬間、柚木は形を切り取っただけではなく、もう色をもすくいとっているのだろう。色と形は不可分なイメージとして、統合された模様として生み出されているに違いない。

柚木沙弥郎の染色 もようと色彩 日本民藝館所蔵作品集
観て 考える 柚木沙弥郎の染色 松井健 より

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