59| 山のは
如月。山と野みちを歩く。
海に面する、鎌倉と愛知県の幡豆にある野山。
いま私たちの住む都市街中にある東山丘陵地帯。そして、愛知県岡崎の額田地域。
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以前、冬のクリスマスに、京都を訪れたことがあります。
滞在2日目、雪の降るなか、貴船神社や鞍馬寺を巡り、真っ白な鞍馬山一帯を、ひとり黙々と歩きました。
夕方、京都駅で賢さんと落ち合い、万歩計をみると、27,000にせまる歩数。
「ちょっと普通じゃない・・・。」
と、賢さんは絶句していましたが、本人も、その朝方には山道を歩くことになろうとは思っておらず。
「結構歩いたなぁ〜!」と、位置確認の為に、ポケットからスマートフォンを取り出して漸く、すでに電波も届かない場所にいることにきづいたくらい。(賢さんには、「それ半ば遭難(呆)」と!)
真白な雪模様の山道がとにかく嬉しく、生き生き、背中を押されているかのように歩き続けていただけなのです。
でもその後、あちこち出掛け歩いても、なかなか2万歩を大きく超えることはないので、やはり、その日はよく歩いたのだと思います。
今月8日に、ひと月前に訪れたばかりの日本民藝館「生誕100年 柚木沙弥郎展」を再訪しました。
翌日、鎌倉を歩く道すがら、予定にはなかった鎌倉五山の建長寺に立ち寄ることとになり、半分「?」と思いながら足を進めると、古い大木がありました。
点在するいとが、むすぶことでほどける・・・。
実はこの体験が、先に引用した「茶花」にも繋がっています。
ひとつには、鶯神楽の木枝を用意した際、頂いた言葉。
もうひとつは、「なぜ茶室に花を置くのか?」という問い。
利休さんは、なぜ茶室に花を置いたのか。もしくは、なぜ、花は置かれたのか。
“花は野にあるようにー”自然を第一の旨とする、ということなら、野山に咲く花をわざわざ切って持ち出すこともなく、または、庭に咲く花をそのまま、あるままに、茶室から眺めればよかったのでは?
植物の木枝や茎に鋏を入れ切りとる時点で、すでに自然に生えている状態から移行しているわけですから、なぜわざわざそのようなことを?
ーーーと。身も蓋もないことのようにも、思えますが…。
前述の問いを持ちながら、ブランチに訪れた東山珈琲店で、開いた文庫本にあった上記の箇所を読みながら、『茶花とは花をもっと花にする意味である』と、響きました。
では、これをひとつの仮説として、「茶花が模様に入って始めて茶花に高まる。よき茶花とよき模様とは一つに結ばる。」と置いた場合に、『模様』の示唆するものはなんでしょうか。
おそらく、この模様とは、感覚の内にあり、言葉に表現し難いものでもありますが、めったに褒めることのなかった柳宗悦さんが、褒めるときには「これは感じがあるね」と、言われたとか。
わたしなど、「お茶のある方だね」などと言われることナゾありましたら、至上のよろこびにひっくり返るデショウ・・・が、その言葉、三次元言語・空間では指し示すものの其々異なる『模様』『感じ』『お茶(もしくは)ある』が共通して含蓄する、もしくは、言葉として違う側面をみせ、点在する3つの含まれ顕れたる源、本源、ひとつであること…。
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