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57| オリエンテーション
2023年1月のある週末、久しぶりに東京方面へ。
湖畔に建てられたヒヤシンスハウスを友人と訪れた後、引越した友人の部屋の掃除のお手伝い。夜には別の友人も合流し、皆で温泉へ行き、心身旧交を温める。
2日目は、朝一番にひとりで日本民藝館へ。
存分に浴び、受けとり、午後はワークショップへ。
たくさんの嬉しい再会。出逢いと交流。
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中心に横たわり流れる、分厚く細やかな静のなかを、動いてみる。行ってみる。
小さくも大きくも。ミクロにもマクロにも。原子から量子まで。
一見目立たない、些細ななかにも、入口と出口はある。
扉を開けたその先に、凝縮し輝きを放つ玉石のひとつひとつと出会い、その多面と奥行きに氣づいてゆく。
繊細でやわらかな花弁に、一枚一枚触れるように。
愛の内に大きくかいほうし、刷新を迎えいれる。
一挙手一投足。その一点から、さらに奥、深くにあるものにきづき続け、蘇り、火を点し、輝かす2023年。
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名古屋に戻り、自宅に届いた小さな袋を開封すると、取り寄せてくれていた本が現れた。
開くと頁にうつくしい筆跡がある。フワッと拡がり、眼前にまた、扉がひらく。
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この一年は、自らのうちに醸成されてきた、叡智や技術、学びや教えを、基礎・骨格としてみなおしたい。
自分に対してあらためて確認する作業や、アウトプットに取り組む。
その実際は、内にあるエネルギーを輝かし、ただ素直に、燃やすこと。
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以下、抜粋の引用は野暮かもしれないが、自分への覚えとして。
さらば何をまともに見たのであるか。見る時何が見えたのであるか。内なるものが映るのである。あるいはものの真体が見えるといってもいい。あの哲学者たちが「全き相」と呼びなしたものである。全きものは部分の総和ではない。「加」と「全」とは違う。全きものは分つことが出来ぬ。分つものがない故に分けて見ることが出来ぬ。それ故未だ分別を挟む時を有たない。じかに見るとは、考えるより前に見る謂である。考えで見れば局部より見えはしない。見るより先に知を差入れる者は、乏しい理解に止ってしまう。見る力は知る力より多くを識る。
それ故茶祖は茶道で物を見たのではない。見たから茶道が起きたのである。このことで如何に後世の茶人たちとは違うであろう。茶道で物を眺めれば、既にじかに見るのとは違う。このことを多くの人々は気附かない。茶趣味に堕ちた「茶」は「茶」ではない。物をまともに見ずば「茶」は基礎を失う。「茶」はものをじかに見よと常々教える。「茶」で見よと教えてはいない。「茶」に捕われてはかえって「茶」を見失う。眼を清めずして、どこに「茶」が保たれようか。
しかも見ただけではない。見ることで終ったのではない。ただ見ることでは見尽くしたとは言えぬ。彼らは進んで用いたのである。用いないわけには行かなかったのである。用いたが故になおも見得たのである。用いずば見了わることがないともいえる。なぜならよく用いられる時ほど物の美しさが冴える時はないからである。それ故用いることで彼らはなおも厚く美の蜜意に触れた。よく見たくば、よく用いねばならぬ。美をただ眼で見、頭で考えるより、進んで体で受けた。いい得るなら行いで見たと、そう言おう。「茶」はただの鑑賞とは違う。生活で美を味うのが真の「茶」である。眼先で見るだけでは「茶」にならぬ。
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