6|茶道の八感 〜名のつく前〜
お抹茶を一服いただいたあと、亭主にお茶銘とお菓子の御名を尋ねます。
先日、お菓子の銘を忘れてしまい、言い澱んでいる亭主役の友人に、先生が、
と、言われました。
「ええ!作者の想いやなんやかが、込められているかもしれへんのに!?」
という、わたしの心の叫びが聞こえたのか、先生は次のように続けられました。
ふと、以前、instagramにあげたことのある、ある出来事を思い出しました。
ベランダから空を見上げていたら、あまりに美しい光に圧倒されて、ふと、この橙色の光だけみたひとは、きっと、朝日か夕陽かどちらかわからないだろうなぁ…。と、いうより、この光が、朝日か、夕陽か、なんてことは、違い、ということだけであって、あんまり…重要でない…だろうなぁ・・・。と、感じたのです。
それでふと、この一瞬には、”朝日”とか“夕陽”とか、名なんてついてないのかもしれない、と思いました。
お茶とは。茶の湯とは。茶道とは。
素敵な趣味ですね、というひとも。
日本を代表する文化だというひとも。
おもてなしの心だというひとも。
精神世界、求道だと仰るひともおられるでしょう。
わたしはというと。時の趨勢によらない、なにもないところで、なにもないところにあるお茶がやりたいな、と思うのです。
文化や、アート、ファッション、デザイン、作法、儀式…etc etc では、ないところ。
実際には、そのすべてでもあります。
多重層、多面体で、どの入口、角度からも自由自在に切りとれる。どこからでもリフレーム・Reframingできることが、お茶の途方もない懐の深さであり、魅力であるとも思います。
一方で、フレームでひとたび識別すると、その枠外へととべなくなってしまう。
フレームが、環境・条件になってしまうという、パラドックスがあります。
そんなのないよ?
いや、わたしはあると思うんです。
常時、あるのだけれど、私たちは気づかずに無視しがちなだけだ、と。
自分のなかで、名がついていないものを、addressすることができない。
だから、落としてしまっているだけなのです。
でもいま、そのななしのごんべえを、私たちは自ら、受けとってゆくことを選び、体験することのできる意識領域に突入していることを、どこにいても、何をしていても感じます。
というより、満を持して、その感覚が顔を出している。
向こうから顕れてくれている。
その実感が、日に日に増しています。
旧タイトル『茶道の八感』に寄せて。
菩提達磨『不識(ふしき)』
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?