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67| love beyond love

 時季早く入手した山吹ひと枝を、自宅のあちらこちらに移し置きながら。
 開花を迎え、ひらひらと花弁を落とし、散りおわるまで、その変化変容を、そっと、見守っていました。


 ふと、“四弁の一重咲の白山吹には、今春、何処かで出会えるかな…?”
 白山吹は、黄色の山吹より稀と、思い込んでいたゆえに、半ば、どうだろう…?と。その日の夕方、近くの植物園を歩くと、あっさり、白山吹を発見。

「あ!白山吹!」「え、もう?ここで!?」

   あたりまえに、楚々堂々と、白山吹はありました。

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 自分の内側を風が吹くと手にひらく、『伝書 しむらのいろ』という本があります。
開けば、その瞬間、響き与えあう箇所に、目には見えない目印が引かれていて、溢れんばかりの示唆が送られてきます。

植物の緑は生命を象徴する色である。

この緑は、この世に現前した色であり、空や海の青とは違い、手に触れることのできる色である。
その緑が植物の葉や幹から直接染まらない。
花もまた同様である。華麗な花々の色も染まらない。
染まるのは灰色、もしくは淡茶色である。

『伝書 しむらのいろ』志村ふくみ著
序、しむらのいろ 植物

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 生まれ落ち、幼少期を育まれた名古屋市緑区鳴海という場所には、絞染という染めの技法と、美しい藍が息づいていました。
わたしが生まれて初めて触れた藍はおそらく、この鳴海の、もしくは隣り有松の藍であろうと思います。

 両親の郷里島根県の出雲にも、藍染めされた出西織や出西窯があり、藍色は、背景の、ホームのような、お守りのような存在。
わたしを含むすべてを内包し、呼吸する、〈あお〉。

以下〈藍ー宇宙を内包する青〉より引用ー
藍染めの濫觴に関する伝説
 天下照姫命と木花咲耶姫命とが打連れ立って山野を逍遙して居られた時、どことも知れずニ神の前に一羽の白鳥が草の葉をくわえて飛び来たった。白鳥はひざまづきつつ、腹を示し苦痛の状態を訴えた。ニ神は注視し、多分腹痛であろうと考え、白鳥のくわえていた草をみずから揉み、絞って白鳥の口に含ませられた。
 然るにその葉草の汁は、白鳥の羽にしたたり、瑠璃色となった。程なく白鳥の腹痛はしづまり、ニ神を礼拝して飛び去った。
 その後、ニ神は草汁が瑠璃色になった奇瑞をふしぎに思し召してその草を集め汁を絞って白衣を染められたところ、非常に美わしい青色を得た。
 その白鳥こそ天神の化身であり、その法を授けんための奇瑞であったことが判明し、ニ神は天を仰いで拝し給うた。

明石染人『日本染色史「藍染めの発見」』

*以下はMEMO*

『緑は生あるものの死せる像である。』
(ルドルフ・シュタイナー 高橋巖訳『色彩の本質』イザラ書房)

 藍甕の中から引きあげた糸が一瞬緑になるというあの緑が像であるとしたら、たしかにあの緑は生と死のあわいにあらわれた像であるかも知れない。この世にとどまる色はすでに物質界の存在である。逆に植物の緑はすでに物質界に存在している、それゆえ色として染め出すことは出来ないのだ。花もまた同じである。すでに染め出されているのである。生命という常に生存の危機にさらされているそのものの色は染め出すことはできないのである。

 ゲーテの『色彩論』からシュタイナーの『色彩の本質』を読むと非常に難解で理解に苦しむことが多いが、実はその本質を語ること自体が困難な霊的な領界なのである。私もそこまで諒解することはできないが、実はその世界にこそ真の色の本質がかくされていることは信じられる気がする。シュタイナーは『色彩の本質』の中でいつかこの色彩の不可視の世界からの呼びかけをゲーテの色彩論を通して後世の人間が必ず解き明かすだろうといっている。

『伝書 しむらのいろ』志村ふくみ著
ニ、染織 色彩論の学び(ニ)西洋の色彩論から

 日本の音曲の中には音を殺すとか音をつぶすとかいう言葉がある。西洋音楽のような音階ではなく、音にならない音までひろいあげて、ふしぎな音階の世界を築き上げる。琴、三味線、尺八、雅楽のさまざまな楽器が織りなす世界は、植物から染め出す色の音階、音譜にもかき表せない半音のまたその半音とか小節ににじみ出る音の微妙さと、どこか似ているのである。雑音まで音として活かす手法はまさに私が使う半殺しとか生殺しと呼ぶ鼠や淡茶色の色調に似ている。
 音と色の微妙な共通点を思わせる。

『伝書 しむらのいろ』志村ふくみ著
二、染織 音を織る より 

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