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29| ある晴れた日

 水が、高いところから低いところへさらさらと流れるように。
わたしも、自然の一部、大自然でありたいと願うのは、いま、そうでないことに、きづいている瞬間ときでしょうか。
 そうあるときの、ふぁっと包まれているような、空間と共に一体にあるときの、その心地よさとよろこびを、いつも思い出していたい。

ときを着る
 ときを纏うきものは、ゆるやかな時間軸を持つ大地の、賛美歌のようでもあると思う。
その表現は、風のようにひとところに留まらない自在さと、刻印が押されるかのように密度濃く在る瞬間ときが、同時に存在している。

 〈変化にきづく〉というゆたかさは、私たちが、ときを持つ大地にあることの恩恵。
その大地に撒かれ、芽吹き、育まれた季々がうつしだされてきたのが、このくにのきもの。
いとも、いろも、絵柄も、文様も、織りも、染めも。
大地に受胎し、芽吹き、育まれ、生きているすべて、生きてきたすべて、そして死んでいったすべてが、きものには編まれている。

 手のうちにはとらえることのできない風のように、ときは、何にもつかまらず、束となって流れるから、そのときを顕しだす器たるきものも、のびやかで、おおらかで、絢爛だ。
絢爛さは、着古された絣にさえ、宿るもの。
均一ではない〈とき〉を、無数の瞬間ときの重なり・交差を、受容しつづけている器。
魂をくるむ器。
そのことに、私たちはどれ程きづけているだろうか。

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通いあう水のゆたかさ
 風同様、それ自身のカタチをもたない水は、器を得て、はじめて自らの存在にきづくのかもしれない。
火の熱や、木々の葉の粉末を受けいれ、とけあい、水が水であることの中心から、存在の状態を、瞬時に、自在に、拡大してゆく。
水が水であることをやめるなら、茶は成立せず、なにか別のものになるだろう。

 水が水であること。 
そのゆたかさと、通いあう水のゆたかさを、いのちの中心から、与え、育み、受けとり続けたい。
澄む水は、支流と出会っても、濁らず、さらに澄みわたってゆく。
支流との出会いはたぶん、風がその背を押している。
とどまることを知らない風の交流と、通いあう水のゆたかさ。

 あらたな清明をむかえるこの大地で、穏やかに、やわらかに、いのちを育んでいます。

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