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1|なぜ、茶道か

 わたしにとっては、一生の学び、鍛錬であり、同時に贅沢な遊び、趣味の域を出ないと考えていたこの道。
自分のなかで風向きが変わり出したときに書いた
【ビジネスの文脈から お茶を】。
2019年1月の文章を、以下転載します。

 昨日、Digital Transformation/AI をテーマにした副社長との対話会で、こんな会社の存在を教えてもらいました。

【VISITS】https://visits.world/
Beyond AI
AIを超える技術で
社会価値を創造する

 ページを開いた瞬間。わたしの脳天をビビビと衝撃のようなものが。
正直、書いてある内容の半分も理解できたとは言えないものの。

 「感覚的な資産」「感性」が数値化されていくと、会社/企業の中のパラダイムは、ひっくり返っていきます。
副社長の仕掛けの意図。やられた…。自分が用意していた解の小ささに、一本とられた…。という、敗北感のようなものを感じながら。
でも、今回の主題はそこではありません。 

感性の時代に、なぜいまお茶茶の湯 なのか。

 そもそも、わたしの着想はどこから来たのか。

 わたしはいま、人事の仕事をしています。
世界各国拠点の次期経営層育成プログラムに、Liberal Artsリベラルアーツ という科目があり、そのなかに、茶道も含まれているのです。
(著名な大学のビジネススクールに送りこみます。)
「まじか、それ、わたしが教えたい…。わたしがやったほうが…。」と思ったのが、一番はじめのきっかけです。(笑)

 では、なぜ、茶道?
日本を代表する文化だからでしょうか?
教養として、会食の際などに恥ずかしくないように、でしょうか?
わたしの見立ては異なります。

ビジネスが、その源流である創造性に戻るとき、
ひとも同時に、DNAレベルで、素粒子レベルで、 
“感”を取り戻す、“感”をひらく、 “感”を研ぎ澄ます
という方向性を持つのではないか。

 その昔、利休さんが体系づけた茶の湯の世界。
実際、お茶というものの日本文化に与えた影響は非常に大きく、私たちが普段意識していない価値観や感覚的なものにも、茶の美意識がほうぼうに入っている、あらゆるものがお茶からでている、ともいわれます。

 事実、茶の湯は、日本古来のさまざまな様式美から成り立っています。
ざっくり羅列してみても…花、書(和歌、表具)、道具(焼物、漆器、鋳物)、食(懐石、菓子)、着物(織物)、造園、建築、礼作法…。

 一方、歴史的に、織田信長、豊臣秀吉はじめとする戦国武将や、松下幸之助さんなどそれぞれの時代の牽引者たちが、お茶の世界に惹かれてやまなかった、その理由は、その根底を流れる、禅をはじめとする精神世界。
無形の美であった、とも。
ことばに変換することの難しい、“感”の世界。

 わたしは、茶道とは、この“感”を体験・体感し、きたみち・・かえっていくための、とおみちだと思っています。
茶の湯は、あまりに見事に、そのように設計designされています。

 あらゆるものが削ぎ落とされたあとになお残るもの。そのあじわい。
禅の世界のことばでは、無とも空とも。
真の創造とは、そんなところからしか生まれないのではないかと思うのです。

 一つの文化として閉じられ、一部のひとにしか触れにくくなってしまった世界を、いま、ふたたび開きたい。わたしのなかには、得体の知れない、でもどうやら、確信に満ちた情熱がありそうです。

 ひとりではやりきれない。ゆえに、ここにつながりのあることを知っている。
つながりを信じ、そして、つながりを生きる、未知の道を、果敢に。

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