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41| 軽井沢② ひかりの沢(さわ)

2日目は、夜間にひと雨降った、雨上がりの軽井沢の町を、歩いて散策しました。

 愛がそのカタチを持たないように、ひかりもそのカタチを持たないから、それを受けとめる、雲や木枝や葉、石など、それぞれのいちに置かれているうつわや、それらが創り出す影や闇が、光をカタチ作っているようにもみえる。
その全体の様相の中に、私たちは、ひかりの在り処や在り様を知るのでしょう。

 脚色のない、光も影も闇もあるなら、それはきっと、きっとそれも、美しいのだろう。
私たちの内に、もう何千億、何千万回と、とされてきたそれも。とされてきたそれも。とされてきたそれも。
その存在も、世界も、大元を辿れば、みなもとには、ただ流れる無色透明の水のようなもの。
それをそっと、手のひらで掬うように。
掬われた水が、指間からしずかに零れ落ちてゆくように。

 流れの中に差し出され、碗形わんがたに曲げられた手のひらに掬われるその水の、触れられるまで知られることのない、その感触や味わいは、それがどのようなものであれ、つよくやわらかなそのわんてのひらが、まるごと引き受けて、“そう”だ、と知り、氣づくのでしょう。

 そして、自らの内にのこる水あれば、手のひらはそれらを色のない透明へとかえて、そっと本来の流れに還すのでしょう。

ショーハウスにて
Cafe 鈴の音にて
室生犀星記念館

 うつわは、さらなるひかりをよぶ。
ひかりはそれひかりをまるごと受けとめ、そのものとして、貫・還かんりゅうさせることの出来る器をもとめ、その器を目指して、流れ込む。

 呼応する機能を持つ器として、つながりある様々な器と手をとり、ひとつとなり、深く関わりあい、たすけ、磨きあい、共にはたらいている。

 そのよろこびの中に、未知なる意図の発現を赦し、さらなる、つよく柔らかなひかりをうつし。

 また、新たに生み、創り出すことのできる生命の流れとして、いまここにある。

白糸の滝にて

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