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63| 祝福と、ひろがり

 3月、弥生。
 家を出て、近隣にある大学の構内まで足をのばすと、時間制限付きで、中央図書館に入れることがわかりました。
入館して、久方ぶりに、大学図書室にある蔵書群に触れる。
ゆっくりと、書架を歩きながら手にしたのが、

『宮大工棟梁・西岡常一「口伝」の重み』

 賢さんに伝えると、「西岡さんの本なら、書斎の本棚に、師匠から譲りうけたものがあるよ。」あわせて4冊を、お借りしました。

3月11日

 「4|お茶って、いいもんだ!」「8|このくにの、祭りの効能」でも、少し触れていますが、父方の流れは島根県旧邇摩郡温泉津にあり、ふるくは宮大工の棟梁をしていました。

 今でも父は、島根では「大工屋の、、」と、必ず屋号を名乗りますが、祖父の代には、家業としての大工業からは離れていたようです。
江戸期に棟梁として建立に携わった鐘楼門が現存しており、父に連れられ、妹と一緒に行ったことがあります。


 温泉津の湾を囲み、近くに住む親族も、木造船の造船所を営んでいました。
おもては海に面し、うしろには山々を背負い。
日々営む中で、山を育て、手入れして木を伐りだし、その材をいかし、寺院建造物や船を造る。山や木と共にあり、山や木を生かし、山や木に生かされている、ということが、そこにはごくごく自然に、あったのやと思います。

青山 西岡さんの哲学では技術は技術、精神は精神ではなくて、技術と精神が重なる。
 例えば、事務所におって、金槌の音だけで、誰が金槌を打っているかがわかると言ってました。金槌の音だけで、「きょうは、あいつは機嫌がいい」「機嫌が悪い」までわかってしまう。極端にいうと、人間の物理的な動作の中に、人間の心があらわれているということですね。
 また人の心だけでなく、木をさわって木がものをいうというような物の見方ができる人でした。一番象徴的なのは、昭和四十八年頃、薬師寺復興と掛け持ちで手がけていた法輪寺の三重塔復興のときのエピソードです。塔の隅のほうに鉄の棒を突っ込んで、軒を引き上げようとしていた時、「そんなんしたら、ヒノキが泣きよります。痛いいうて泣きよります」と、物をただ単なる物と考えず、命あるものとして考えていた。もっと突きつめていくと、釘でさえも、「たたいて、たたいて、たたかれた昔の釘は生きておる」というように、同じ鉄でも生きている鉄と死んでいる鉄とを見分けることができる。
 西岡常一という人は、ある意味では神がかりみたいなことをよくいっていました。しかし、それは決して神がかりではない。そういう精神的なことを習得した結果でもあるんです。

宮大工棟梁・西岡常一「口伝」の重み
第五章 受け継がれる「こころ」南無金堂大菩薩 より

 (前略)こうゆうのを文化というのとちゃいますか。それを法隆寺を知らなんだら文化人やない言うてぎょうさん人が見に来ますがな、ネコもシャクシもみな法隆寺や。ちっとも法隆寺のことわかってないのや。ただ古いからゆうて見にくる。ただ古いのがええんやったら、その辺の土や石のほうがよっぽど古い。何億年も前からあるねんで。そやありませんか。人間が知恵だしてこういうものを作った。それがいいんです。それが文化です。それを知らずに形がどうや様式がどうやいうのは、話になりませんな。法隆寺がでけてから千二百八十年たって解体しました。そしたら四隅の隅木がね、五重やから五つありますけど、それが下から一直線にスーッと立ってます。千三百年前に作ったままでんがな。ということは、「木のクセ」をちゃんと知っておったんです。
 ところが、鎌倉時代はそんなこと知らんもんやから修理をケヤキでやった。だからこんなふうにそっくりかえるんです。木をクセで組んでないということや。自然から離れてしまっていったんや。建築物は構造が主体です。何百年、何千年の風雪に耐えなならん。それが構造をだんだん忘れて、装飾的になってきた。一番悪いのは日光の東照宮です。装飾のかたまりで、あんなん建築やあらしません。工芸品です。人間でいうたら古代建築は相撲の横綱で、日光は芸者さんです。細い体にペラペラかんざしつけて、打ち掛けつけて、ぽっくりはいて、押したらこけるという。それが日光です。室町時代以降、構造を忘れた装飾性の強い建築物か多くなってますな。そやから何回も解体せなならんのですわ。

木に学べ 法隆寺・薬師寺の美 西岡常一
第一章 千三百年のヒノキ 木を知るには土を知れ より 

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