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4|お茶って、いいもんだ!

 この一週間は激務が続き、この調子じゃ土曜日の朝起きれるかなぁ…と、思っていましたが、今日はめずらしく、ちゃんと起きて、朝一から夕方までお茶のお稽古に。

 外は雨が降り続き、薄暗さのある一日でしたが、のお釜から立ち昇る白い湯気とその音を感じて、えも言われぬ着地感とともに、みるみるうちに元気を取り戻してゆきました。

 今日は、お茶のことが好きで好きでしょうがない、I君と久しぶりに主客を共に。

 彼はどちらかというとお点前が得意な方ではなく(無骨なところがあり、器用でないだけ)、本人の熱心さ、一生懸命さとはうらはらに、先生に「わたしはもう些事を投げました…。」と、言わしめたひとなのですが…。(笑)

 彼はそんなことちっとも意に解さず、自らのお茶の道を、ものすごい純度で歩んでいるひと。
彼は行動・実践派で、わたしはそのピュアさによくはっとさせられるのですが、今日もまた、お濃茶を練りながら、「あぁ…。」と、気づかされたことがありました。

 彼とともに座していると、彼の座っている側があたたかいのです。
つまり、彼の嬉しさがじんわり伝播してくるのです。「あぁこのひと、ほんとうに呆れるくらい、心の底からお茶を愛しているのだな…。」というのが、それらしい言葉も、表情も、態度もなく、ただ座っているだけで筒抜けに伝わってくる。

 『主客直心の交わり』と言うけれど、一体どちらが主で、どちらが客か、それすらゆきつかえりつしながら。共に関わることの豊かさ、ありがたさを、今日はしみじみと感じさせてもらったのでした。

***

(散文的で恐縮ですが、)お茶をはじめてまだ三、四年の頃、稽古を終えて帰宅したわたしに、突然父が「お茶って、いいもんだろ。」と、言ったことがあります。

 父は技術畑を歩んだ、成形加工のエンジニア。
お茶を習ったことはなく、お茶の体験と言えば、わたしが点てたお抹茶を、自宅でぐぃっと飲み干すくらい。
お茶のなにかも知らないはずなのに、なんであんなこと言ったのかなぁ?と、すこし不思議に思っていました。

 職人気質の父(父方は先祖が宮大工で、屋号も大工屋。父はそれを色濃く受け継いでいます。)の背中をみて育ったわたしは、学校、仕事、あらゆることに対して一生懸命で、手を抜くことを知らず、月曜日から金曜日の間に全精力を使い果たし、あとはもうひっくり返ってる…ということが、昔はよくありました。

 そんなわたしを、自分のことのように心配していた父は、わたしがお茶と出会い、心身を解放できるうつわを見つけたことを感じとって安心し、きっと嬉しかったのだと思います。それが、

「お茶って、いいもんだろう?
(出会えてよかったな)」

の、一言に、凝縮されていたのだなぁ…。
と、なぜだか突然、今日という日にぐわっと来て、なんだかやたらと泣けました。

***

 茶の湯は、たしかにこの国の風土で育まれたものですが、内包する世界は、国をこえた普遍性を持ちます。
そのことは、陰陽五行論や易とよばれる東洋思想、禅などによっても、すでに、説明されています。
こういった理論、哲学やその他様々な要素のほかに、これからの時代に茶の湯の果たす新しい役割や可能性があるとすれば、わたしはその鍵のひとつは、身体性にあるのではないかと思っています。

あぁ、お茶っていいもんだな
なんだかホッとするなぁ

 お茶のもつ原始的な普遍性って、むずかしさではなく、五感や身体性に息づく自然な動きや自然の流れの中に感じとれるもの。
身(身体)をもって体験する、ちょっとした素朴さの中にこそある気がしています。

 日本の総合文化、芸術とよばれる茶の湯にあって、わたしは芸術家ではないし、文化人でもなく、茶人の端くれにも足りえないのですが、だからこそ、この「お茶って、いいもんだ」の素朴さを壊さずに、「あぁほんとだね」と感じていただけるような体験をしていただけたらなぁ、していただきたいなぁ…と願っているのだと思います。


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