3|承継 -お茶道具のこと-
昨晩、思いもよらぬ一通のメッセージを受けとりました。
わたしは、名古屋の一般的なサラリーマン家庭に生まれ育ち、“お茶、お花”というのは、その存在を、うっすらと、知っているくらい。
小中バスケ部、高校ではサッカー部と、スポーツ一筋だったわたしにとって、それはどこか、遠い異世界の、関わりのないことのように感じていました。
そんなわたしと茶道が出会うきっかけを作ったのは、高校時代にオーストラリアに留学し、大学で茶道部に所属していた妹です。
「先生のご自宅のお稽古場に見学に行くから、一緒に行かない?」
と、誘われ、なんの考えもなしに、のこのこついて行ったのが、25歳の誕生日を迎える、ちょうど1ヶ月前のこと。
わたしの母は、結婚前にすこしかじった程度で、家でお抹茶が振る舞われるようなことはなく、お茶に関する古い本が数冊。茶筅と棗がひとつずつ。茶碗が数個、戸棚に眠っているような状態でした。
父方、母方の両祖母が、茶道を嗜んでいたと知ったのは、稽古をはじめて暫く経った後のことです。
夫を早くに亡くした父方の祖母は、晩年茶道に触れるようになり、それは、都会に出た子ども達と離れ、ひとり暮らす生活の中に、祖母が見出した、ささやかな愉しみだったと、亡くなったあとに聞きました。
むかしで言う庄屋さんのような家にお嫁に来た母方の祖母は、その地域の方々からおかっつぁんと慕われていて、お嫁にいかれる近隣の若い娘さんたちに、簡単なお茶の手解きをしていたようです。
父方の祖母はわたしが小学生の頃になくなり、母方の祖母はわたしがお茶をはじめたのと時を前後して、入院を機に認知症がすすみ、生前、お茶について話したり、聞くことはできませんでした。
それでも、最後の数年間、島根と名古屋を結ぶ電話口で、会話が成立するほんの1、2分の間に、わたしは毎回、同じことを伝えました。
祖母もいつも同じ言葉を。
「そがぁかなぁ、そがぁかなぁ…。そらぁ、よいことをしんさったなぁ…。」
誰と話しているかもわからなくなってしまう祖母と、それ以上の会話は続きません。
でも、笑顔をなくしてしまった祖母が、その瞬間だけは、くしゃくしゃの破顔を取り戻すことを知っていたから、わたしは毎回、同じことを言いました。
お稽古をはじめて最初の8年。
低空飛行の続くなか、お茶をやめなかったのは、この祖母の存在が大きいです。
そして、お稽古をサボると実家まで電話をかけてきてくださった先生の情熱と、“お迎えが来るまでは続けよう…。”と思っていたのに、待てど暮らせど気配を見せなかった、〈あがり〉のご縁。
(お稽古仲間の大半は、わたしの妹も含め、皆、結婚や出産で、お稽古をはなれてゆきました。(笑))
そんなこんなで、いつ途切れてもおかしくなかった道が、不思議なことに、いつしかわたしにとって、かけがえのない道に変化していきました。
わたしは、茶家に生まれたわけでも、茶人を目指しているわけでもありません。
特別なお道具も、環境があったわけでもなく、今もそうではありません。
なにひとつ持っていなかったからこそ、気づくことのできたなにかがあったのかもしれません。
“お茶は、特別なひとだけが触れるものではない”
というのが、わたしの心の葉です。
わたし自身がそうであるから、誰にでも出会うことができ、触れることができ、知ること、はじめることのできるものだと思い続けてきました。
事実、そうなのです。だからそのことを、ご縁ある方々に体験いただく橋渡しができないかと思い、最低限のお道具を揃えて、場所を探していこうと思っていた矢先のこと。
このメッセージを受けとった、今日のお昼休み。
わたしは涙が溢れでて止まらなくなり、少し遠くまで、ひとりで食べに出ました。
泣きながら、歩きながら、
「あぁ、おばあちゃんが生きていたらなぁ。おばあちゃんとお茶のこと、もっといっぱい話したかったなぁ!」と、思いました。
結局いつも、お茶をはじめたことを、誰よりも、何よりも、一番喜んでくれた、祖母の姿が思い浮かぶのです。
私たちがほんとうの意味で承継しているもの、承継してゆくものってなんだろうか。
そんなことを、ときどきおもいます。
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