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27|銀世界
(前略)
『南方録』には、「侘の本当の心は清浄で無垢な仏の世界を表したものだ」と記されています。
〈草庵茶〉という、後の〈侘び茶〉に通じる茶の湯を始めたのは、村田珠光でしたが、彼は茶の心を表す言葉として、「冷えさび」や「冷え枯るゝ」を使っていました。
武野紹鴎になってはじめて〈わび茶〉が意識され、正直で慎み深く、おごらぬさまを〈わび〉と表現しています。
『南方録』の中に、紹鴎が〈わび〉を表した歌だといっていつも愛誦していたのは、藤原定家の
ー 見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦のとまやの秋の夕暮れ ー
という歌であったと伝えられています。
(中略)
利休の〈わび〉は紹鴎のそれとは少し違っています。
同じく『南方録』に、利休が〈わび〉を表現した歌だとみていたのは、藤原家隆の
ー 花をのみ待つらん人に山里の 雪間の草の春を見せばや ー
という歌です。
紹鴎は花、紅葉を過ぎた秋の深まった夕暮れ時に〈わび〉があるといい、利休は冬の終わりから春を迎える頃に〈わび〉があるといっているのです。
つまり、花も紅葉も雪に埋もれてしまって、白一色の銀世界の下に、
わずかに芽を出しはじめた草木の、春の訪れを予兆させるようなところに〈わび〉があるというのが利休の〈わび〉です。
紹鴎の〈わび〉である浦のとまやではまだまだ不足で、無一物の世界から未来への成長が期待されるところまでいかなかればならない。
華やかななものを見、とまやというさびた世界も過ぎた清浄無垢な世界にあって、新しいものを作り出す生命力、それが利休の〈わび〉でした。
冬の、最も厳しい大寒の新月の日に生まれ、花も、生命の気配も、月の光もない中(生まれたのはお昼の時間帯!)、か細い産声をあげた(らしい)わたしは、
魂がその日を選んだ意図、のようなものが、ちょっとだけ、わかるような気がします。
光もよわく、生命がすべての活動を止めてしまったかの如く、何も無いように思えるとき・ところにこそ、感じられる動めき(MOVE)のあること。
きっと。そのことをよく知っていて、堂々と、そのど真ん中に、飛び込んでき(やがっ)たのでしょう。。(!?!笑)
“あなたには、見えないものを観、
聞こえないものを聴き、
触れないものに触れ続けることで、
この世界にいかされる役割があるよ”
お茶の修練を重ねて15年。
そこが点前座でも客座でも、座するたびに感じてきたのが、「いのちが息を吹き返す感覚」。
・・・“息を吹き返す”ってね!?(笑)
でも、ほんとうに、ぺしゃんこになっていたいのちが、ムクムクと立体的に
“ここだよ” “ここにあるよ”
って、立ち上がる。
それでわたしは、〈いのちの再生〉や〈いのちの発露〉を助けるのが、お茶の在り様なのではないか、と、思ってきました。
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すこし話が変わりますが、易学で言えば、「利」即ち「和」(だ、そうです)。(すみません、ワタシはちっとも易に明るくありません‥)そして、
「休復、吉」
休く、復る。吉。
この「休」について、「休は美」であると解釈されていて、つまり、易の視点から考えれば、〈利休〉とは即ち〈和美〉の意と理解することもできるのだとか・・・。(『茶の湯と易と陰陽五行/関根宗中著』より)
さらに余計な蛇足ですが、いつぞやのワタシも、好きなように(笑)、〈わび〉についてポストをあげていました。
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