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5|清和 出逢いのこと

 お客様がお抹茶を一服召し上った後、お道具を拝見される際に、信楽しがらき茶入ちゃいれと、茶杓ちゃしゃくめいを尋ねられました。

 茶入は春信しゅんしん
春信とは、春の訪れ、花が咲いた春を知らせる便りのことをいいます。
茶杓の銘には、ふと清和せいわという言葉が、口をついて出ました。
今日、家を出て、川沿いの桜並木を見上げたときの桜の蕾の甘美さと、枝越しに澄みきり晴れ渡ってみえた青空ののびやかさが、わたしの中にありました。

〈せいわ〉だなんて、ふだんの生活の中では聞き慣れない言葉。
先生も、お客様をしていた社中の友人も、一瞬「え?なになに?」、と。(笑)

きよらかにす。清和せいわ

と、言い直しているうちに、はっと気づかれたお客様役の友人が、

「心が、洗われます。」

と、一言、伝えてくれました。


 こんなふうに、茶席では出逢いがあります。

 お軸や茶花、お抹茶の甘苦やお菓子の彩りはもちろん、お湯の煮える音や、茶碗の中で茶筅がさらさらと水およぐ音。
亭主と客の息遣いや間合いも、一期一会です。
ひとときとして同じ瞬間はなく、その一瞬一瞬が、紡がれては消え、また紡がれては流れていきます。

 わたしは幼いときから、自分に内在する二極性をつよく感じていました。

 静と動。情熱と冷静。繊細さと大胆さ。わたしはこういう人間だと、わかりやすく誰かに説明することができない。なぜなら、同時にそうでない自分、その真反対の自分が確かに存在しているからです。
そのわかりにくさ、得体の知れなさが怖くもあり、そのことを自分自身で受容できないうちには、人生も面白く、蛇行していました。

 たとえば…。バスケ・サッカーと根っからの体育会育ちだったはずが、突然文転(文化部転向)して茶の湯の道へ。また、国語や歴史、英語が得意な文系少女(数学が一番苦手)のはずが、大学では数学系(数理科学)の学部に進学。
どちらも自分の意志で、とは言いがたく、数学の学科だ!と気づいたのは、入学式の3日前でしたし、茶の湯の道に足を踏み入れたのも、先生が怖くて、入門を断れなかっただけでした…。
さらには、新卒で入社した会社も、お茶とは対極にありそうなIT企業。
ほんとうに、両極やらないと気が済まないの、とでも言いたげな(笑)、不思議な半生を歩んできました。  

 ふと、そんなことを思いだしたのは、今日わたしが発した清和せいわの響きが、清らかさだけを指しているのではないと気づいたからです。

清でも、濁でもよい。清は清として、濁は濁として。
そのことをただそれとして、受け容れていることを、清らかと言っているのだと、思いました。

お茶とは、陰陽の出会いあいとそのあい

 出逢うということは、とても軽やかなことです。
ふと、めぐり逢う。ふと、知り合う。 
風がふわりと吹くように、鳥がふわりと舞い降りるように。
わたしはその軽やかさが好きです。

 そして、その軽やかさに、沁み入るような深さを感じ取るからこそ、出逢いの本当を見つけることができます。
主客の間のやさしさの空間、やわらかな想いの世界と、自然の流れがあるからこそ、出逢いは、その本当をあらわすことができます。

 わたしは、茶の湯とは、その出逢いの舞台装置として、宇宙の理がこのくにの地(風土)にうつし出されたものだと思っています。

 そして、その出逢いには、ときどき、稲妻のような閃きのしるしがあります。
思えばわたしも、出逢いに内側が一新するような、そんな体験を、いくつも重ねてきました。

 驚き、閃き、刷新。
ここまでの時間、出逢いの数だけ変遷を遂げてきたことに、心からの感謝があります。
そしてここからは、わたし自身も、同じ閃きを、それを必要とする誰かに贈ることができればと思っています。

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