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69| あるまま
早朝目覚めると、鳥の声が響いています。
高くも低くくも感じない、大きくも小さくもない、落ち着いた、やわらかな、とってもいい声だなぁ…。など、そっとその響きに耳を澄ませていると、体内やまわり一帯、意識を、やさしい感覚が流れてゆきます。
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空のあおの濃さや、芽吹く新芽の、透き通る、色鮮やかな濃さに、“あぁ、濃いなぁ・・・” と、カメラを向けてみたり、その手間すら、惜しんでみたり。
ほんとうは、濃くも、薄くも、自在の世界にあり、濃いと薄いのあわいを行きつかえりつもする、創造の自由、創造のチカラが、私たちには与えられていることを、受けとり続けているようなきもします。
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日々の稽古場。
実家の庭から、花水木と姫空木(と、紫のチューリップとほうれん草やブロッコリーなど…。)をわけて頂いてきました。
小さな庭付きの建売住宅に移り住んでから、両親は、植物の育たない粘土つちだった庭の土づくりを、長い年月止むことなく、楽しんでいます。
庭に土があり、土に触れて育ったこと。そしていまも触れられるその恩恵を、たくさん受けとっています。
木花や草花の巡る庭に、花水木があり、稽古場の花にと、鋏を入れて、花のある枝を3本持ち帰りました。
帰宅して、どこか、シクシクする。
言いようのないなにかにきづいていて、そこには、花水木の枝を切断した瞬間の、切り離された枝と幹の受けた衝撃と、太さの割にしっかりとした、密度と硬さ、通うもののある枝に、自らの手で鋏を入れて、ゴツっと分断したときの感触が、残ってありました。
1本ならずも3本も…、とか。断流、分離。
それを自ら、自らの行為(茶花)のためにしていること、したことへの罪悪感や嫌悪感のようなもの。
あるそれらに、きづいて、そっと、受けとっていました。
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空木は、ユキノシタ科、もしくはアジサイ科ウツギ属の(笑)、落葉低木です。
別名は、卯の花。
ほんとうは、そのあり様は、分類も、所属も、名前も。バージョンなども。たくさん、たくさん、様々に、ありますね。
ではいま、ここでは、なんてお呼びしましょうか。
例えば、無数にある呼び名のひとつを、いまここで呼んでいたり、もしくは呼んでもらっていたり。
名などで呼んだり、呼ばれることなくとも。
なにかのaddressがスイッチとなり、いまこの瞬間に、同時に点在し重なりあう、無数のつながりの全点を、
点すら含むその先にまで、振動として響き渡り、呼び覚ましたり、呼び覚まされたり、していること。
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つながりのなかで、出会い、共にあること。
つながりのあるからこそ、私たちは、識ること、感じること、すること、体験すること…etc.が、できている…。
その位置に立つと、やっぱり、あるのは、(月並みな言葉であっても)“感謝”ということしか、なくなってしまいます。
〈識別していること〉も、〈つながりであること・つながりを思いだすこと〉も、〈与えること〉と、〈受け取ること〉が同じであるように、そう、あるようにも。
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