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72| ハハウタ

 わたしをよく知る友人に、「はなおは眠り姫やからなぁ〜」と形容されるほど、季々折々に、よく寝ることがある。

 寝相など、アクロバティックであることには自覚があるけれど、自らの肉眼でその様態を確認するのは、なかなかに難しいことである。
ところが近年、数々のスクープ写真にうつし出されている、眠り姫とはチョットくちがサケても言えない実態に・・・。ちょっと目を、まあるくしている次第‥!

9月3日

 2018年5月に、初めて坂本さんと東京でお会いし、個人セッションを受けた際、満円の笑みで「スイケン使いみたいなね‥」と、嬉しそうにお話された。
「スイケン」自体が何のことか分からず、ポカンとしていると、「例えが少し男っぽくって申し訳ないけど…」と。
元ネタがわからなかったので、男っぽいのかどうかもわからない。

 意味の乗らない、純粋な音として受けとっていた「スイケン」が、後日、ジャッキーチェンさんの『酔拳』と結びつき、はじめて、その動画にたどり着いた瞬間は、あまりの歓喜と、笑いすぎと、面白すぎで、そのまま波に乗って、ひとりで『DRUNKEN MASTER』という会を立ち上げてしまったほどである・・・・・orz

お持ちいただいた青紅葉
4月15日
I氏が持ってきてくださったお菓子・・・

  くつろいで、寛ぎとしてここにあると、鳥の声も、動物の鳴く声も、吹く風も、流れる雲も。
光彩も、湯気の感触も‥この指先と、この掌とも、この膝下ともいまの瞬間に、内でつながっていて、共に動き、呼吸も、ひとつに・・・。

 空間も、時間も、いのちも。
共に呼吸し、そのおおきな息遣いの一部として、わたしも分かれずにここにある。しずかに、ひとつひとつ、波打っている。
・・・一緒に舞い、踊っていることがわかる・・・。

 と、いうより。

 ”わたし”という、意識のひとつのの表現、個性を通すと、そうみえたり、体感しているということだけで、感覚や表現は多様多彩、無限だから、ただ、それぞれのうつわに受けとられ、様々に、ありうる無限の様態・形態、表現として、放たれている。
 
 そんな宇宙のエネルギーの様々ようようは、もうそれだけで、ただそのことが、ゆたかだ・・・。
 ー つながりに、回復する 

 力はゆったり抜けていて、緊張はどこかへ溶けていて、何かを固めてしまうことも、固まってしまうことも、握りしめることも、掴むものも、ない‥。
何もしていないし、何をすることもないのに、なにかが自然と生まれて、ある・・・。

 そのやわらかな、さわやかで、心地のよい、形容もできないなにか。

 どれもこれも、言葉にすれば近似にしかなり得ないけれど、すべてを生み出し、すみずみまでゆきわたり、育み、見守り、修復し、満たし…その回復を、知られもせず支え、応援しているような。

 やさしい源、意識、母胎・体のようななにか、を、わたしは、ハハなる・・と、呼びたくなる。

 ちなみに、エネルギーの軌道(特性)を、「あなたのエネルギーは、宇宙の暗闇に煌めく、予兆なく変化し揺れ動く、オーロラの輝きのように美しい・・」と、表現してくださる方も、以前にはいらっしゃった‥。

 ・・・が、酔拳の描く軌道も、オーロラに負けずおとらず!?(笑)めちゃくちゃ美しく
それに、おおらかさや、包みこむようなあたたかさも、どことなくある(!)酔拳軌道・・・。(まぁ、酩酊ですからね…)

 内に流れる純粋なる源を、つながりの内に安心しきって、解放してゆく。
発現するエネルギーは、のびのびと、ゆたかにゆたかにつかわれて、未知なる軌道を描く。

 そのとき同時に、今まで使い慣れたきた構造や側面が、あわせて一緒に、様々な音色を出してきて、驚き、何度も固まってしまうことの、あるやもしれない。
でも、その溢れ落ちる音は、還ってゆこうとする音だから。

 あり余るほどにたくさんの愛は注がれて、応援され、生じるところへ還ると決めている、いまこの瞬間に、自らひとつつながりへと向かっている、勇敢な音だから。

 それがどんな音色でも、こちら側の都合で一方的に拒否してしまうことのなく、この耳できき届け、身体を通し、吐く息とともに流し、存在全体の耳や目として掬われ、とけてゆくように。

 ふたたびさわやかに、流れだすように。

 自らの背中に手を触れ続け、そっと、ぐっと支えて、あたたかな応援をおくり続けている、つながりの一部として、あり続けたい。


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