日記2024/05/01「絆光記」

・昨日はシャニマスのイベコミュ「絆光記」を読んでずいぶんと食らってしまったので何も書けなかった。あれはすごいコミュだ。

・テイストとしては「Your my love letter」と似ているが、アルストが抱擁と愛で語ったのに対し、イルミネは意味と言葉で語った。

・なんだかいろいろ思いすぎて、一日たったはずの今でも語るのに窮している。

・持てる者の言葉は待たざる者には響かない。陰によってのみ安らぎを得られるような者たちから、光は安寧を奪っていく。他ならぬ私ももたざる者なのだろう。小学校高学年くらいからテレビのバラエティが苦手になった。張り付けたような薄っぺらい善良さが気持ち悪かった。「善くある」ということについて私はこんなにも考え、否定を重ねた背理法的に悩み苦しんでいるのに、奴らは無邪気にそれを振り回す。許せなかった。

・ノブレスオブリージュ、持てる者の義務は、社会的に力を持ち成功したものが道徳的にも勝利を収めようとするための道理だ。確かにそれによって持たざる者は助かるかもしれないが、別の側面として「弱者に手を差し伸べる」という形のマッスルポーズを披露しているだけだということは否定できない事実だろう。そしてそれはイルミネや他の優しく暖かく眩しい人が「光を嫌うあなたに、どんな言葉をかけたらいいだろう」と思うその優しさにも同じことが言えるのだ。救える・救ってあげられるという傲慢さだ。

・じゃあどうすればいいのか。光が時に人を傷つけるのであればそれは悪なのか。傷つけられた影は善なのか。歩み寄ることがその善良さが悪なのか。じゃあ何ができるのか、何もすべきではないのか。

・今作の答えとしては「言葉を 探し続けよう 生きていく限り」だった。YMLLの「教えてください あなたの 名前を」とどことなく通ずる。だが同時に「言葉は 言葉だ」というセリフも語られたのが興味深い。

・私は、言葉には力なんてないのかもしれないと思った。言葉はただ記述する道具だ。言葉とは写像関係によって現実世界を別のバーチャルな形に写し取ることが出来る道具で、それによって人間は伝達を可能にしている。だからこそ人は言葉に「力をもらった」「励まされた」「元気をもらった」といい、言葉にはパワーがあるといわれている。

・しかし上手く言えないけれど、「言葉は 言葉」なんだと思う。元気をもらうにしても結局は「誰が言ったか」の問題である部分も大きいし、もらった言葉に熱を吹き込んでいるのは受け取った側なんでは無いか。

・言葉に熱は無い、言葉に衝撃は無い。ただ熱を、衝撃を受け取る空間を作り出すだけなのではないか。あたたかくなった・衝撃を受けたと感じる心、その「心」の正体こそが他人から受け取った言葉によって生まれた言語空間なのではないか。故に言葉は直接心を打つのではなく、心そのものを生み出す器そのものなのかもしれない。

・私たちは、大したことは無い、魔法でもエネルギーでもない言葉を連ねるしかできることがない。どれだけ探しても「真理」のようなものは決して見つからないんだと思う。万人の心に届いて、光も闇も幸福で包むような魔法は存在しない。だから目の前の「あなた」にだけ届くような正解と間違いを、虚しく有限なパターンから漁り続けることしかできない。徒労。それは徒労なんだけど、徒労でなくてはだめなんだとそう思う。

・何言ってんだ?自分でもよくわからず感覚で文字を打っている。でもこれは何か重要なことのような気がするのでとりあえず、論理は置いてただ連ねよう。私は光について語らなくてはならないんだから。

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