クリスマスイヴの日のスーパーマーケットで。
たぶん、この光景を見たのは、体調が悪くなる前だったんじゃないか?と思う。自転車で家とスーパーマーケットやドラッグストアの往復を2回くらいはできていた頃だったんじゃないか?と思う。
クリスマスイヴとクリスマスのスーパーマーケットは激混みで。その時の昼だけ必要なものだけを購入して、すぐに帰宅した。
2回目にスーパーマーケットに行ったのは、夕方で。けっこうその時間は空いていた。午前中は激混みで、たぶん、夜も激混みになるのだろう。夕方の時間は、ちょうどその中間の空いている時間だったようだった。
だいたい毎年小さめのワンホールケーキを買う。セブンイレブンのかまくらはハマる。普通においしい。ただ、その年はどこでクリスマスケーキを買ったのか、買わなかったのか、記憶がない。ただ、ひとつの光景を見て、私は「ステキだな」って、思ったのだ。
夜に必要なものを購入するためにレジに並んでいたら、会計先に老夫婦がいて。仲良さそうで。その購入済みバスケットの中に
2ピースのカットケーキが入れられて。互い違いにして、ケースに入って売ってるやつ。普段もスーパーマーケットで売ってるやつ。
それを見て、すごくハッとして。そうだよね。ふたりだから、2個でいいんだよね。すごく自分が欲深い人間に思えてきて。
食欲がある時代はもう過ぎているのは事実で。現実として、1ピースのケーキとコーヒーか紅茶があれば
満足できることも知っていて。
ひとりの時、ケーキ食べたい時は、非現実に浸りたい時はホテルでケーキセット(たぶん、人が思っているよりも安い金額設定)行くけど、
普通にお金が使えない時って、あって。その時も安いなりにいろいろあって。
いちばん安いのは、たぶんロールちゃん。
次に安いのは、まるごとバナナ。
ちょっと高級なのは、まるごといちご。
雪苺娘って、私には高級な金額設定で、食べたことない。
和菓子が食べたい時は、だんごか、おはぎか、意外と
月餅。月餅はごまあんがすき。
感覚的なことなんだけど、高いものは非現実を楽しむだけで。私からすると
ディズニーランドへ行く人たちは、みんなお金持ち。というイメージが付いてしまっていて。小学生高学年の時にディズニーランドができたんじゃないか?と思っているけど、
以前といろいろ約束が変わってしまっていて。
というのも、当時はチケットの種類が複数存在していて。いちばん安いのは入場券で。その他にも、決められたアトラクションしか入れないようなチケットがあり、それはアトラクションに10種類使える。というものだったのだけど、開園してまもないディズニーランドはとにかく混みすぎで。現実として、とても指定された10種類のアトラクションを体験することは不可能で。そういう場合には、そのアトラクションチケットの残りは
次回使えて、有効期限はなかった記憶で。
しかし、もうほとんどのアトラクションは存在しない状態の他に、そもそも現在は
パスポートしか存在しないような。。。
開園当時いちばん安いチケットで、両親とディズニーランドに行った記憶が最悪で。食べものでも、飲みものでも両親が「高い」「高い」と連発していた記憶しかなく、まだ小学生だったので、「これ、欲しい」とか、その時はまだ言っていて。もちろん「こんなものは人生に必要なものじゃない。今だけ欲しいものだ。無駄カネだ」なわけで。まぁ、ポップコーンには憧れましたね。そんなものは
一生手に入れることはできないのだけど。
憧れてもいけない。思ってもいけない。
もっと、植物的でないといけない。
欲しがるなんて、罪悪でしかない。
たぶん、私が本来なら人生で、普通の人が普通に生きる生活を丸投げしてしまったのは、過度に繰り返される『手に入らない人生』に慣れてしまった結果だったように思う。憧れてもいけない。手に入れることは罪悪。なんか、納得。
私からすると、
結婚も子どもが誕生することも心のどこかで
『これは豊かな人や普通の人じゃないと手に入らないことだ』と思っていたところは
結婚適齢期当時は常に頭によぎることだった。私はずっと、『真っ当な理由で離婚をしている人』を探していた。そういう人だったら、出産することもなく、添い遂げることができるんじゃないか。と思っていた。ただ、現実としては
「それはおかしい。未婚の女性が、わざわざバツがある人を探しているなんて」ということにはなった。もったいない。とか言われた。
人に言われると流されて。人生って、若いと、そうなってしまう時ってある。
BBAはみんな我が強くて。もう、私はBBAだな。と思う。やっと、文句のひとつも言えるようになった。
ずっと、怯えていた。私を助けて。と、怯えていた。誰も助けてなんてくれないし、私は諦め癖がついて。
これでよかった。とは、思ってないのだけど
ただ、両親にはずいぶん騙されていた部分があったのは、
私が家族の言うことがほんとうのことだと信じすぎるほど
純情だった。ということは間違いようはなく、
なんで、こんなへんな人たちのことを長期間信じてしまったのだろう。というのはある。
私の意見を絶対に潰しに掛かる家族じゃ、自分の意思で動けるようになるなんて、無理だよ。
人の人生を弄んで。
ただ、有毒ガスでやられる前はNPOに出入りしていたのだけど、普通に夫が先立ってしまった方とか、出入りしていて。楽しそうだった。お弁当とか、わざわざ作ってきて。椅子に座って高齢女性がふたりで食べているのを見ると
こういうのって、いいよね!って。
だから、独身で、結婚していなくても、なんかかたちは形成されるものなんだと思う。ある程度の年齢まで行くと「来年、生きてるかな」みたいなマインドになっていくらしい。
年を重ねて、恋愛なんてものがなくなっても
育むものがいないとしても
ただ、存在として、植物のようであって、顔に表情がうまく伝わらなくても
今の私でいい。
誰かが私に文句を言うなんてことはできるものか。
おもしろいのは、あんまり歳が変わらない人が
私を目下の人間だと思い込んで
意地の悪いことをしたり
また、心をはじめて許せる人が目の前にいる。と
突然泣き出す人もいる。
私は自分にタイトルを無理矢理付けて、わざわざ偉ぶる人間が大嫌いだ。あるいは、目下の人間(だと思い込んで)意地悪をする人間が大嫌いだ。大嫌いが言えなかった人間が、やっと、大嫌い!を言えるようになった。
私はあのクリスマスイヴの日の夕方のスーパーマーケットでパックに入った2ピースのカットケーキを購入されたような
タイトルがないささやかに生きる人がステキだと思っている人間で。
私は今のからだで、あの老夫婦くらいの年齢まで生きているかは正直疑問だ。皮膚を見ると気落ちする。ただ、年を取るを経験していって、高齢者になるところまで
生きていたら
少女のような高齢者になっていたい。と、
願ってる。
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