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真備町で気付かされたこと

これは、数年前の大学2年生の頃のお話です。

この時僕は公立大学、教育学部の2年生。

まだ実際に小学校に行って教育実習を行う前で、現場はそれほど見ていませんでしたが、
先輩の話や大学での講義や生の声を聞き、考え、学び、議論するたびに、僕は先生になろうか迷っていました。

ちなみに教育学部に入ったのは、
①シンプルな「教育」の興味と
#どの世代も仕事も関わってくること
②子供は昔から好きで、かつ
③比較的誰とでも仲良くできること
(友達からは「優しいね」とか「先生に向いてるよ」と言われることが多かった)
その辺りの理由が、この道に進むのを後押ししたかなと思います。

でも、「絶対先生になりたい!」という気持ちは全くなく、大学後の先のことは考えていませんでした。
#珍しくシンプルに分野に興味で入ってきたレアな教育学部生


ただ、学べば学ぶほど、現場の声を聞けば聞くほど、周りを見れば見るほど、
僕が「先生になる意味はなんだろう。」
「僕なんかがなっていいのだろうか?」
と疑問を持ちました。

#周りを見渡せば賢い人ばかりで
#真面目な人ばかりで
#授業や話し方が上手い人だらけ
#まるで出口の見えないトンネルのよう
#この写真は出口見えているけれど


でも、やっぱり1番引っかかっていたことは

「僕が先生になって何を大事にして
何を子供たちに伝えられるのだろう?」

です。


昔から先生を目指してたわけでもない、
「先生なんて向いてない」と諦めているわけでもない

ただただ、僕が先生をやる意味、価値についてまだ何もないのにも関わらず必死で目指すべき指針を模索してました。
#そういうところは真面目

子供たちのことが大好きな分、中途半端にこの道を選ぶわけにはいかないという生真面目さがあったのかもしれません。
#先生が子供に及ぼす影響はどちらの意味でも
#とてつもなく大きい


少し昔話をすると、
部活で監督とは馬が合わなかった同級生の花開かなかった姿とかを見ていて、すごく寂しくなった経験があります。
僕はキャプテンで監督の指導は一貫しているところが尊敬していたし、チームメイト(同級生)に関しても人柄や能力を尊敬してたので、
両者の歯車がうまく噛み合わない不協和音が
とてつもなく寂しく、
その時、監督いわゆる組織を束ねる(人を見る)立場の人の影響はプラスにもマイナスにも大きいんだと実感しました。

先生もまた同じことが言えます。
先生によって子どもの可能性が広がる場合もあったり、もしくは潰れる可能性もあります。

前からそういう人の上に立つものの責任みたいなのは感じていたので、だからこそ先生へと言う道は簡単には踏み出せずにいませんでした。

先生になるにしろ、別の道を選ぶにしろ、
前進するために自分の考えを出そうと決め、
その考えを出すために必死にありとあらゆる勉強をしました。

ただ、いくら考えても、勉強しても、
「この教えはこの子には花が開くきっかけになるかもしれないけれど、
この子の可能性を狭めてしまうことにもなる」
なんてばっかりの選択肢のやり方になってしまって、
自分が本気でブレずに
みんなに同じく伝えたいこと、
見せたいものはなんだろう
」と
余計わけわからなくなっていました。
#沼にハマる


思いもよらない転機

そんなある日、
バイトの友達が岡山県真備町のボランティア(その当時甚大な被害を受けていた水害被災地)に参加したという話を聞きました。
#西日本豪雨のやつです

僕も何かやれることやろうと
頭ではなく直感で行動に移してみました。
#そこまで意図や理由はないままとりあえず行ってみました

真備町での震災復興支援ボランティアに参加してみる

被災から2ヶ月ほど経った9月ごろ、
まだまだ暑く、被害の様子もまたまだ見られる状況での訪問。

僕が行ったお家は、
何もかも流され、木屑や土砂、家電などを一通りを外に出した後で、家の基礎となる柱の拭き掃除や床掃き掃除の作業内容でした。

その時見た景色を「空き家みたい」と表現するには、あまりにも違いすぎて
ただただ
空っぽという状況でした。
もぬけの殻でした


僕の他にボランティアの人は、4人いて5人チームで作業を行ったのですが、なぜか一番若造の僕がみんなの推薦でチームリーダーとなり、新人現場進行を務めました。
#休憩時間のタイミングや初めのお家の方の挨拶 #進行スピードの管理など全体を見ながら行う役割

なんで俺やねん!?と思いつつ、頼もしい先輩スタッフばかりだったので、おんぶに抱っこ状態で神輿かつがれながらチームリーダーを経験させていただきました。

ただね、話を聞くとその時にいたチームスタッフがほとんど現地の人だったんです。
#中には被害を受けた方もいました

それでも大変なのは自分だけじゃない
ということで、
平日仕事する中、休みの日曜日に手伝いに来たというんです。

向こうからすると大学生がわざわざ小一時間電車でやって来てくれたという好印象を持たれましたが、
こっちからすると自分も手一杯なのに、周りのところにも力になろうとするところが本当に凄い方達だなと思いました。

それがまた自己犠牲になっておらず、自分の出来る範囲で力になるというスタイルもまた素敵だと思いました。


そうこうしているうちに、
作業が終わりだいぶ綺麗になった後で、持ち家の家族の方から感謝のお言葉をいただきました。


その時の言葉が、
僕の教師になる上での軸の形成になったんです。
#そうです
#僕の転機です


多少文言は異なりますが、一部紹介します。

(被災された方から)
「この度は本当にありがとうございました。もう一日中綺麗にしてもらって、感謝しかないです。
一時は本当にたくさんのものを失って
どうしようかと頭を悩ませる日々でした。
まだ子供もいるし、体を悪くした両親もいるし、この先どうやって生きていくのか、仕事はできるようになるのか、不安な日々でした。
いろんなボランティアさんがこうして来てくださるのですが、本当に心の面で支えられてきました。今でもそうです
ありがとうございます。
本当に良い方ばかり来てくれて大変感謝しております。被災を受けて思ったことは何より命が大切に思ったこと。命があればやっていける。
そしてこうして力を貸して支えてくださった方々がいる。どうかこうして関わってくださった全てのボランティアさんも幸せになってほしい。そう願っています。
ありがとうございました」


とおっしゃられました。


僕はその時初めてモヤモヤがスッと消えたんです。

「あ、そっか。僕が子供たちに伝えられること、教育の軸は幸せになってほしいなんだ。
その想いは全ての子に共通して言える‼️
そうじゃん、難しく考えすぎてた。
目指すべきゴールは子供たちの幸せ
幸せの形は千差万別。ただその子その子にとっても幸せはなんだろうか?それに向けて僕は何を出来るんだろうか?と個別に考え続けることはできる。正解はすぐには見えないし、時間が経たないとわからないことだと思う。ただそこさえブレなければ大丈夫。
それが教師ができる教育、僕の教師指針だな
とスッキリしたんです。」


あの方が、直接今後は関わない(会うことがない)ぼくたちスタッフに対してそうやって幸せを願っている姿が

子供を送り出した教師像とすごく似ていたんです。親とも言えますね

その教育指針が決まってから、僕は教師になることを覚悟を持って決意しました。

__________________________
こうして書いている中、今は教師という立場ではなくなりました。あの頃の昔話をしたいわけではありません。
伝えたいのは、あの時の経験、言葉で教師を目指しようになったこと。
そして、今もその教育指針は消えていないということです。

普段わいわいの記事を読まれている方に、僕を知ってくださってる方にもう少し深く知ってほしいという意味を込めて書きました。


まだ過程です。

道の途中です。


いろんな遠回りをして、失敗をして
だけど火は消えていない。必ず花を咲かせます
ぼくの教育指針を大事にして、子どもたちに(教育)に必ず貢献できるように必ず大きくなります。
その道のりをこれからも見守っていただけたら幸いです。コケたり、もがく日々ですが、一生懸命進みます。
これからもよろしくお願いします🤲


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