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破滅を突き詰めた先にある、深く確かな安堵

先日『マッドマックス怒りのデス・ロード』という映画を観ました。

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2015年製作とやや古い作品ですが、当時大ヒットしたので ご覧になった方も多いかと。私は初見だったのですが、なぜ今更かと言うと、大好きなこの方↓の解説を読んでしまったからなのです。


マッドマックス 怒りのデス・ロード【連載】田中泰延のエンタメ新党
https://wwws.warnerbros.co.jp/madmaxfuryroad/index.html

僕、観たやつも観てないやつもつかまえて、2時間の映画なのに、この映画の話を鳥貴族でもう18時間ぐらいしています。

トリキで18時間ですよ?笑 そりゃもう超絶くだらなくて、とんでもなく面白いに決まっている!R15指定とのことなので、娘・息子が小学校でお勉強してる間にAmazon primeで観てやりましたよ。大人ナメんなよw


『北斗の拳』的世紀末観に震える

開始1分、すでに荒廃しきった世紀末観全開です。核戦争で砂漠と化した地球上、残った人類はもはや生き抜くこと以外何も気にしちゃいられない原始生物状態。文明は全て滅び、水とガソリンを支配するものが全てを支配する。そんな分かりやすく独裁制が敷かれた集落が物語の舞台です。

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人々は水を求め奪い合い、文字通り「人の命が一杯の水より軽い」そんな地獄絵図の世界で、「輸血袋」と呼ばれ、実際血を抜くためだけに生捕にされている主人公マックスと、独裁集落から女たちを救い出そうとする女戦士フュリオサ(シャーリーズ・セロン!)が、特大の石油タンカーでひたすら砂漠を爆走しながら、ひっきりなしに殺されかけ続ける物語です。怖い。笑

特に女たちの扱いは、同じ女性から見て震え上がるほどの酷さ。「子を産む」という機能以外ほぼ何もない、完全なるモノ扱い。そりゃフュリオサも逃げ出したくなる。

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このように、想像し得る限り「最低最悪の未来」が容赦なくディテールまで映像化されているのがこの映画です。笑(監督、当時で70歳越えだったとか。どこまでアグレッシブ&クレイジーやねん)

いやー、もう観てるだけで疲れる笑。2時間のうち1時間45分くらいは、ずーっと爆走しながらの戦闘シーンだし笑。しかも殺しにくる連中がどいつもこいつも全員クレイジーで、見た目もイッちゃってる。

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こんな奴とか

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なぜかひたすらギター弾くマンとか

他にもパンチの効いたビジュアル勢揃いですが、ここでは自主規制。

もうね、絶対子供には観せられないですよ。向こう1ヶ月、毎晩夜泣きされること必至。

でもこれが、見事に飽きずに観続けられるのです。息を飲みすぎて首疲れるけど、面白くて目が離せない。専門的なことはわからないが、たぶんカット割とかシーンの取捨選択(いわゆる編集?)がもう天才的に無駄なく漏れなく秀逸なのだと思います。

安堵はどこに?

こんなリアル地獄絵図な映画のどこに安堵を感じるのかって?それをこれから説明しますね。

まず一つ目は、「想像しうる最悪を描き切ることの効用」です。

私たちは常にいろんな不安にさらされています。病気、死、奪われること、失うこと。特に昨今のコロナ禍の中では、経済的な不安や健康不安、粛々とディストピアに向かっているかのような漠然とした不安が誰の中にもるあのではないでしょうか。

不安というのは、目の端で捉えたオバケと一緒で、チラッと見えるのが一番怖い。恐怖から目を背けたいのは人の性ですが、一度しっかり目を凝らして見れば「なーんだ柳の枝だった」ってことは往々にしてあるわけです。

同じように、我々が漠然とした不安を感じる時、その先の状態までは想い描いていないことが多い。怖いからね。いわゆる寸止め状態です。怖い。見たくない。でもたしかにある何か。それを腹に力入れて一度ギッと凝視して見ると、「みんなに見放されてからの孤独死かぁ。うーん、まあイヤだけど、それで?」って感じでスコンと恐怖が抜けたりするものです。(しません?わたしだけ?)

この映画の何がいいって、(少なくとも私にとっては)想像し得る一番最悪な未来を、ディテールまできっちり描写してくれているところです。暗闇で揺れる柳の下の幽霊も、白日のもとに晒せばそこまで怖くはない(たぶん)。人にとって一番の恐怖は、「よくわからない」ということなのではないでしょうか。そういう意味で、ここまでリアルに振り切って地獄を描ききってくれたこの映画は、私にとってある意味福音でもありました。

ただそこにある狂気

そして二つ目の安堵の理由。それは、登場人物ほぼ全員が山賊状態という、非現実的狂気の沙汰が繰り広げられているのに、なぜだかどこか懐かしい世界でもある、ということです。

思うのですが我々は、近代化され生活が便利になればなるほど、「生き物としての無力さ」を痛感するのではないでしょうか。今のご時世、山賊だらけの砂漠に放り出されて、生きて帰れる!と断言できる現代人がどれほどいるでしょう。スマホがなければ方角もわからず、火を起こすこともままならない。それはすなわち死を意味しますし、そこにどれほどの恐怖と無力感を伴うかは想像に難くありません。

しかしこの映画に登場する人たちは、生存本能優先で頭のネジが外れている分、死ぶとい。とにかく死ぶとい。恐怖で動けなくなることもありませんし、常に死に物狂いです(ま、映画なんでねw)。

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(口に含んだガソリンを毒霧みたいにエンジンの吸気口に吹き付けて車加速させるシーンなんてもう笑うしかなかったw)

そこには、照れもためらいも忖度も一切ない。非常にシンプルでプリミティブな直感の世界。

いや、狂ってるだけでしょ?と思うかもしれませんが(そして実際狂っているのですが)、そんな生死ギリギリの狂気は、間違いなく私たちの中にも眠っていると思うのです。今は発動する機会がないだけで。そんな自分の中の狂気を、「これでもか!」っちゅーほど拡大して見せてもらうと、無力かと思われた自分に対して、なんとも言えないふてぶてしい安心感みたいなものを感じるのです。そしてなぜかとても懐かしい。長らく眠らせてきたけど、この生存本能、私の中にも確実にあるよね♡という感じ。

そもそも狂気と正気の境界線でさえ非常に曖昧かつ、人為的なものです。時代によって狂気の概念も変わる。(昔の人から見たら、SNSでここまで自己開示してる世の中って狂気そのものじゃないでしょうか)


我々は、この「狂気」という見えないエンジンを積んでいるからこそ、正気の中で生きていられる。そんな気がするのです。

「人間追い詰められたら何するかわからない」というのは、負の意味で語られることが多い言葉だけど、そんな狂気スレスレのパワーが、我々の底力にもなっているのは間違いありません。

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そろそろ締めねば

言いたいことは全部書いたものの、オチらしいオチも見当たらないのですが、やはり思うのは、人は狂気と正気、光と闇、どちらも抱くことで底知れぬパワーを発揮し、思い切り命を生き切れるのではないか、ということです。片輪だけは走れない。

とかく狂気や闇は、良くないものとして隠蔽されがちですが、どんな感情や事象も、我々が善悪のラベルを貼るまでは単なる波動、エネルギーでしかないわけです。その莫大なエネルギーが自分の中にあることを知り、認める。光と闇、狂気と正気、両方が自分にあることを思い出すことが、本来の自分のパワーを取り戻すことであり、この狂った世界で自分を生き抜くための唯一の方法ではないかと思うのでした。

ちなみに

R15指定というからには、どんだけエグい映画なんやろと思いましたが、いやいや全然!

そりゃあすごい勢いで人は死んでいきますが、怖いまでに嘘や甘えのない描写、人の本性を描き切る執念、その先に見える本当の意味での希望、どれを取っても品格さえ感じるほどの作品でした。翌日息子ともう一度観ましたが(どんだけ好きなん?)、息子も爽やかに楽しんでました。

腹の底からパワーを取り戻したいとき、嘘だと思って観てみてほしい。本当におすすめの映画です。










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