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4.シソンヌ大好きなのに長谷川さんをなかなか描けないわけ

私はシソンヌファンである。
ファン歴はまだ浅い。この秋で二年ぐらい。
しかし飽き性の私の中では長い方だ。

まあまあな熱量で応援していると思う。
ドラマを一切観ない私がシソンヌさんの為だけに苦手な機械操作をし録画して観るくらいにはファンである。
おかげさまでレコーダーの使い方が理解できるようになった。


皆様は『はなむぐりはじろうファン』と思われているに違いない。
前の投稿にも書いた通りTwitterの投稿なども圧倒的にじろうさんのことや絵が多い。気分が落ち込んでいる時は更に多くなる。
だがちゃんと、私はシソンヌお二人とも好きだ。

ただ、『好き』の質が違う。


こんな言い方をすると弊害があるが、じろうさんに対する1番近い表現は『劇薬』だ。

強力な効果で一気に私を変えていく。悩みも苦労も新しい情報を投薬することですぐに解消される。

ただ副作用もある。『周りの人の呆れた視線』だ。
もしじろうさんに至近距離で出会うような事があれば舞い上がって何も言えなくなって『何か言わなきゃ』と焦って突拍子も無い行動を取る自信は大いにある。
周りに同じ『症状』の方が居れば共有できて安心するのだが周りに同志はおらずただ一人浮くのである。


対して長谷川さんに当てはまりそうな表現は『漢方薬』に近いものがある。

派手な効果はないが気が付けばじんわりと効いている。観ていて安心して満足している。

こんなことを言ってもしょうがないが長谷川さんは私の兄に似ている。顔ではなく雰囲気というか纏っているオーラのようなものというか、なんとなく似ているのである。
テレビに出ていても応援したくなる。『頑張ってるね』という感じ。
『家族愛』にも似ていて、改めて言葉にすると小っ恥ずかしい気持ちになる。

ところで絵を描くときは対象の方の顔を何度も見ている。

ずっと顔を凝視して特徴を掴む。
その時々の表情で瞳の表現も変わり、たったコンマ数ミリの違いで顔の印象も変わる。
その作業の繰り返し。
スマホの画像を拡大しては見て縮小しては見て、対象の方と向き合っている。

じろうさんを描く時はまるで恋する少女のようにずっと見ながら描いている。
時折家族の呆れた視線を感じながらそれでも描いてしまう。
わかっているけどやめられない。やっぱり『劇薬』である。

対して長谷川さんを描く時はかなり恥ずかしい。
家族を描いているような感覚に陥ってしまうのだ。
この投稿を見ていただいている皆様も普段から家族の顔はそんなに凝視することはないと思う。
なので一人でいる時にしか描きづらい。
家族のいない平日の日中なんかに描いている。今は亡き兄を思い出しながら。

そういう訳で私は長谷川さんをなかなか描けないのである。

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